彼女が久方ぶりに外の空気を吸ったのは、8月のある晴れた日のことだったという。2年間に渡る潜伏生活が、密告による逮捕で終わったのだ。踏み出した一歩が死へ続いているなど、予想できるはずがない。
その半年後、飢えと凍えにより彼女は命を落とす。
彼女――アンネ・フランクの人生は、1944年8月4日を境に、終わりへと転落していった。10年以上前から、刻一刻と迫る危機から必死に逃げてきたにも関わらず、ついに運命に絡み取られてしまったのだ。
同時に、彼――カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーも、この日が人生の分岐点になるなど、この時点では思いもよらなかったはずだ。
1944年8月4日。オランダのSSに勤務するジルバーバウアーは、密告をもとにして、長きに渡り隠れ家に潜伏していたユダヤ人8人を逮捕した。彼にとって迫害加担は職務であり、アンネ・フランクは大勢のユダヤ人の一人にすぎなかったはずだ。
戦後、彼はウィーンの警察官となり、巡査部長にまで昇進したという。
しかし、1963年に彼を取り巻く状況は一変する。彼は、かの有名なアンネ・フランクを逮捕した元SSであると突き止められたのだ。罪なき少女を死に追いやったにも関わらず、のうのうと生きる元ナチス。世間が騒がないはずがない。停職処分では留まらず、彼の逮捕は裁判にまで発展することとなる。
「私たちが、アンネ・フランクと何の関係があるんですか」
彼も、彼の妻も、20年前の出来事を掘り返されたことには不満を抱いていたという。
ジルバーバウアーの階級は曹長である。管理職ではなく、彼はユダヤ人迫害に対して意見を述べられる立場にはなかった。
さて、私たちはカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーの行為を糾弾することが出来るのだろうか。
アンネ・フランクは自身の日記の中「それでも私は人間の善を信じている」という名文を書き残している。短い生涯で、楽しかったことよりも苦しいことが多かったであろうことを知っている私たちは、彼女の純真さに涙する。
どうして、迫害されているにも関わらず、彼女は人間を憎まずにいられるのだろう。
若くして虐殺された悲劇の少女。そして、女神のような慈悲を持つ彼女に、私たちは掌を合わせるのだ。
それに比べると、ジルバーバウアーの何と愚かなことか。
罪なきユダヤ人の虐殺に間接的とはいえ関わったうえ、名前のある一人の少女が亡くなった事実を前にしてもまだ、自分には非がないのだという姿勢を貫いている。謝罪の一言でもあったらまだ印象も違ったのだろうが、彼が当時の行動を悔やむ理由は「周囲の人間から村八分状態にされるから」というものだ。
彼の態度は、私たちの思い描く悪の化身たるナチスそのものだ。
SSに加入した。
それ自体が罪なのかもしれないが、当時の社会情勢を踏まえると、20代後半の彼がSSに志願したのは別に不自然なことではない。誰だって、生きるためには安定を求める。
ユダヤ人を逮捕したのが罪か。
確かに、倫理観に照らすと到底許されない行為である。しかし、ヒトラーの側近ならともかく、オランダの曹長でしかない彼には何の決定権もない。
命令を拒否しなかったことはどうか。
アンネたちを逮捕した当時、彼は33歳である。現代の日本でさえ、上司に逆らえない人が多いのだから、まして逆らえば死が待ち受けている状況で、上官に歯向かおうと考えられる人がどれほどいるだろう。
ジルバーバウアーに責めるべき点があるならば、情状酌量の余地はあるにせよ上記のような部分であろう。
しかし、私たちにとって彼の最大の罪は「アンネ・フランクの逮捕」なのだ。
私はこれが正しいこととは思わない。
彼を責めるならば、世界中に名の知れた少女を収容所送りにしたからではなく、SSに志願した点から責めるべきだ。そうでなければ、明らかに不公平である。アンネ・フランクさえ逮捕しなければ、彼は誰からも糾弾されることなく穏やかに一生を終えられたという話に行き着くし、きっと彼のような立場の元SSは大勢いるはずだからだ。
私たちの彼への糾弾方法が、さらに彼の態度を硬化させた可能性があるのではないだろうか。
悪と見なされるカール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーだが、私自身は彼を非難することはできない。逆に、アンネ・フランクを自分からかけ離れた慈悲深い少女であるとも捉えない。
私たちはきっと、状況によっていずれかの行動をとる。
虐げられる側なら地獄が終わることを祈り、虐げる側なら自分が生きていくために順応する。
私たちは聖人君子ではない。どちらの立場になるかは時の運にもよるものであり、性格的な側面はあまり関係ないのではないだろうか。
戦争と平和。このような話をする際、私たちは「二度とアンネ・フランクのような悲劇を生み出さないように」という表現を用いる。
迫害がなくなりますように。差別がなくなりますように。理不尽からもたらされる凄惨な死がなくなりますように。
なぜか私たちは、自分が「カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーになりませんように」とは祈らない。
私は、自分のことが怖い。
正義なんて目に見えない。倫理観は個人で異なる。法のように形を持っていない。一歩間違えたら、虐殺に加担してしまう可能性は、誰もが持ち合わせている。
なぜ自分だけは、上司に命ぜられても他人の頭に銃弾を撃ち込まないと信じられるのか。
独裁者に背けると誓えるのか。
だから、私たちは考えなければいけないのだ。
自分は本当に、カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーを責められますか。
終戦記念日の今日、76年前に亡くなった全ての犠牲者を悼みながら。