Weekly Yoshinari

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【廃案済】ウラジオストク逃亡計画

世界史が得意科目だったにも関わらず、10代だった自分は、海外志向とはかけ離れた考えの持ち主だった。

なぜなら、これでもかと言うほど英語が苦手だったからである。

中学一年生の4月に「なんでHelloの綴りはHarouではないのだろう」と悩んでいると、英語の授業についていけなくなった。当然テストは平均点以下。高校時代には、英語の授業の前に胃が痛くなることもしばしば。

「英語は大事!グローバル化!」と唾を飛ばして熱弁を振るう教師には、「私は日本国内で生きていくし、英語を使う仕事は避けて生きるし、グローバル化くそくらえ」と内心でヘイトを吐いていた。

 

しかし、20歳を過ぎた頃に価値観が変わった。すべてはイタリア語を学んだことに起因するのだが、海の向こう側の世界へ憧れを抱くようになったのだ。

同じ空の下で、まったく違う文化を自分のものとしている人がいる。人間としての共通点や文化の相違点を想像すると、歴史とか人生の意義とかロマンとかが溢れ出すようだった。

色々な国へ行ってみたい。色々な人と話してみたい。それぞれの国の歴史を深く知りたい。

いつの日か、日本以外の国で生活をしてみたい。

このような夢見がちな自分が一人で海外へ飛ぼうと考えたのは、社会人一年目のわりと早め。夏季休暇が終わった8月後半だった。

 

端的に言うならば、生きるのがつらかった。

 

森を眺めずに木を凝視する性格の私は、細かいことで悩む。

楽しい夏季休暇が終わり、残業に追われる日々が始まっていた。日々の出来事に楽しみを見いだせず、気持ちは沈んでいくばかり。こんな暗い毎日を送ってていいのか、自分。

憂鬱さに引きずり込まれる途中で、気がついた。溺れる直前に木の板を発見したかのように。

あ!!!一人で海外に行って、このつまらない日常から逃げればいいんじゃないですか!!私、天才すぎん!?!?

思い立ったら即実行。

こうして、深夜二時特有のハイテンションはウラジオストク行の航空券とホテルを予約するまでに心をつき動かし、退路を絶った。

名付けて、ウラジオストク逃亡計画。

 

ウラジオストクはロシアの沿海に位置する都市で「極東のヨーロッパ」とも呼ばれている。東京から3時間かからず行けるのに、街中に建つのは神社ではなく正教会だ。整えられた街並みは、いかにもヨーロッパという繊細な美しさを持ち、異国情緒が漂う。長期日程を組めないのにヨーロッパへ行きたい欲張りな自分にとって、ウラジオストクはベストな選択だった。

同期、上司、先輩。10月の3連休に2泊3日でウラジオストクへ行くと課内の人に伝えたところ、ほぼ全員から、どうしてそのチョイスなのかと問われた。

「韓国なら分かるけど、ロシアにひとりで行くの?危険じゃない?」

「台湾とか香港とか、アジアじゃないんだ!なんで?」

「そんなにボルシチが食べたいの?」

すみません、ボルシチなんて考えてもいなかった。自分の目的は、つまらない人生から解放されること。その一点だけだったのだから。

私は謎に行動力が高い。万全を期すため、「arcoウラジオストク」だけでなく、「ニューエクスプレス・ロシア語」まで買い込み、逃亡計画に備えた。なお、ロシア語は難しすぎて付け焼刃の対応は無理だと最初の数ページで悟った。

ホテルの詳細もBooking.comで何度も確認した。パスポートの有効期限も問題ないし、観光ビザも取得した。

私の計画に不覚はない。……はずだった。

 

しかし、ここで不運に見舞われることとなる。

 

過去最大とも予想される超巨大台風が日本に迫ってくる。

2019年10月。ニュースのヘッドラインは、台風一色であった。

「絶対に飛行機とばないでしょ。そもそも自宅から空港まで行けないんじゃない?電車も止まるかもしれないらしいよ」

課内の先輩達からも無理だろうと言われていたし、気分が上向く天気予報をひとつも見つけられなかった私は、9割方ウラジオストク逃亡を諦めていた。週末の午後にはJRや私鉄が計画運休することも決まっていた。仮に無理して空港へ到着できても、欠航した時間次第では自宅へ帰れなくなる可能性だってある。

しかし、搭乗予定のs7航空からは、一向に欠航連絡が来ない。不安に包まれながら、ウェブチェックインをした。これが、MissのはずがMrsで搭乗券が発券された前日21:00の出来事。

次の日、本当に飛ぶのかと疑いつつ、ガラガラの電車に揺られて、空港へ向かった。

そして、人もまばらな空港で見たのが、この掲示

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左から2列目にご注目。赤字がないのがお分かりいただけるだろうか。

おそロシア。なんと彼らは飛ぶつもりなのだ。この史上最大級とも呼ばれる台風が迫っている状況にも関わらず。

これ、ひょっとして死ぬのでは。飛んでくれる嬉しさよりも、死を覚悟しなければならない危機が迫っていることに笑いが漏れた。

その後、空港が着陸自体を禁止したため、ゲートが開く30分前に欠航が決定した。死なずにすんで良かった。

 

火曜日から仕事が再開した。何も変わり映えがしない。逃げられなかった日常につなぎ止められたままだった。

私は当時、災害対応関係の部署にいた。辛い日常から逃げるはずが、台風のせいで仕事が増えてしまい、ここでも自分の運の悪さを嘆くことになる。

 

多忙な日々において、私はウラジオストク逃亡計画のリベンジを虎視眈々と狙っていた。

上司からも随分慰められて、春休みに有給を取得して、オーストリアでもチェコでも好きなところへ行ってこれば良いよ、とすら言ってもらえた。

この時はまだ、春先にでも海外へ渡航できると信じていたのだ。数か月もすれば、ウラジオストクでもプラハでもブダペストでも、自分のお財布との相談を重ねるだけで、自由に海外へ行くことができると。

しかし、運の悪さはここで終わらない。

2020年の年明けから、新型コロナウイルス感染症が発生したせいだ。海外旅行はおろか国内旅行すら行けない、新しい日常生活の始まりだった。

「コロナが終わればウラジオストクへ行こう」

自分に言い聞かせてきたのに、コロナは収束しない上にウクライナ侵攻が始まり、日本からロシアへ行ける機会は失せた。

 

2024年4月現在、日本からウラジオストクへ行ける見込みは立っていない。

私は、今でもたまに思う。

あの日、10月12日を渡航日としなければ。

航空券の価格を気にせずにシルバーウィークを渡航日にしていれば。

課内の同僚や先輩のことを気にせずに有給を取得して、9月前半を渡航日としていれば。

私はウラジオストクに行けていただろう。このウラジオストク逃亡計画を完遂できていたことだろう。

なぜよりによって、2019年10月12日にウラジオストクへ行こうとしてしまったのだろう。

悔やんでも悔やみきれない。

 

さて、自粛期間中には、コロナ明け初の渡航先をウラジオストクにしようと決めていたが、その夢が散った今、ウラジオストク逃亡計画は廃案となった。

だが、自分を取り巻く状況は変わらず、悶々とした気持ちが燻るばかりである。むしろ、年を重ねるにつれて、人生の悩みは増えているともいえる。

時間、選択、外見、年齢、年収……。他人との比較軸は尽きない。

見なければいいのに馬鹿だなと呟きながら、SNSで発信された友人と自分の人生を比較し、なんて自分は不幸で可哀そうなのだろうと哀れむことで、時間が浪費されていく。

人生がつらい。とてつもなく辛い。このまま海の泡になって消えてしまえればいいのに。

なんで私はみんなと同じように生きられないの?

彼氏もいない、婚約者もいない、夫もいない、子どももいない、ペットもいない。

普通の人生を送りたいだけなのに、私の人生は自身の価値観において普通ではない。

普通のはずなら、恋人くらいいる。その恋人と最低1年は付き合った上で、28歳までに結婚しておきたいから、そろそろプロポーズされていないと難しい。同期のように年収は600万円以上あるべきだし、華奢な女の子のように体重はあと2キロくらい落ちているべき。もっと可愛らしくあるべきだし、他人に不快感を与えないように身なりは整えて、迷惑をかけない振る舞いをしないといけない。いつもポジティブでいるべきだし、それでいて自分の芯をしっかり持っているべき。

これが「普通」で私の理想。みんなは叶えられていることなのに、どうして「普通」のハードルを越えられないのだろう。他人と比較して、劣っている部分は何なのだろう。みんなよりも努力が足りないのだろうか。頭が悪いからだろうか。性格が悪いからだろうか。

考え出すと止まらないのに、原因も解決策もまったく分からない。

このギャップがとてつもなく辛かった。

誰とも会う気がおこらない。誰とも話したくない。だって誰かと会ってもみじめなだけだ。

心に鉛を詰め込まれているような抑鬱状態から抜け出せなかった。私は心を覆う分厚い殻の向こう側に閉じこもり、 みんなの記憶から消えてしまえればどれほど幸せだろうと願った。

一人は最高だ。誰とも話さないでいい。笑顔を作らなくてもいい。

けれども、社会人として生きていく以上、コミュニケーションは必須であり、ずっと一人きりでいられるはずもない。他人と会話をすると、嫌でも自分の置かれた状況を他人と比較してしまう。そして、自分にはどこか欠陥があるのだろうという不安に苛まれるのだ。

 

日常がつまらない。誰とも会いたくない。人生がつらい。どこかへ逃げてしまいたい。

 

もうここにはいたくない。壊れそうな心を癒す手段は、日本と虚構の世界から逃げることだった。

だから私は、新たな逃亡計画の起案を決めたのである。

(続く)