Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

フラペチーノが遠すぎる

誕生日やお祝い事などの節目には、スタバカードなるものをよくもらう。

全国共通、みんな大好きスターバックスコーヒー。

LINEでピコンと送れるし、もらって困るものでもない。遠方に住む知人に送るプレゼントとしてはなかなか優秀なセレクトだ。相手が鳥取県に住んでいるなら、「ご近所にスタバがある環境だと思うなよ!」と今後の友好的な関係性を左右する可能性も考慮に入れておくべきだが、だいたいの県にはスタバが存在する。ありがたや、ありがたや。

 

私の手元に、プリペイド式のスタバカードがやってきた。ギフトだったので、すでに金額はチャージされている。しかも3000円分。

いやあ、良かった。とっても良かった!!スタバへ行き放題!!!

グーグル先生に聞いたところ、どうやらプリペイドカード使用前にWeb登録をするとスターバックスリワードなるものに参加でき、ポイント(スターと呼ぶらしい)を貯めることで、様々な特典をゲットできるとのこと。なんかよく分からないが、カッコいい雰囲気がある。

街灯に集まる夏の虫のごとく、カッコよさげなものに吸い寄せられてしまう習性があるので、私はほぼ条件反射で速攻Web登録を済ませた。

 

スタバの会員という響きに酔いしれること約半年。

私の残高はいまだ3000円であった。

 

もともと、私はスタバが苦手だ。

偏見を承知だが、あの意識高そうな雰囲気が苦手なのだ。田舎出身の仕事できない・意識低い系には敷居が高い。ナンチャラカンチャラフラペチーノのカスタムドウチャラで、サイズはエル……あ、スミマセン!グランデです!みたいな。

これ書きながら、いまメニュー調べててんけど、ドリンクって言わへんのやな。ビバレッジって言うねんな。別にええで、意味は間違ってないし。でもな、こういうとこや、スタバが苦手なんわ。なんであえて、ドリンクじゃなくてビバレッジっていうん?ドリンクという外来語としての地位を確立してる単語じゃなくて、受験英語をやった人しか分からへん単語を使うところに、分断を感じるねん。

ついでに言わせてもらうと、あのサイズ表記。CEOがイタリアに敬意を示しただかなんだか知らんけど、なんでサイズ表記に英語とイタリア語が混在してるん。そのせいで、分かりづらいことになってんねや。だいたいな、英語すら話されへん日本人がイタリア語のサイズ表記なんて見せられて、分かるはずないやろ。「スタバ行く人はだいたい英語できるハイスぺだから、類推余裕でしょ?」という挑戦状か?

心の声を盛大に吐き出してしまったので、一旦お口をチャック。

 

数年前の誕生日にスタバカードをもらった時には、会社の帰りに途中下車してスタバへ寄ってみた。なんとなく、スタバで英語の勉強をするというシチュエーションに憧れがあったからだ。行く前はあれだけフラペチーノの頼み方を調べて予習は完璧、満点ゲットと自信を持っていたのに、いざ行くと

「あ、コーヒーで……サイズはトールで……」

と消え入るような声で、キラキラした店員と目も合わせずに安全牌のオーダーをして時が経つのを待った。着席後も、「スタバ初心者が勉強しようとしている、不慣れな奴だと思われているのではないか」という不安が脳をかすめて全く集中できない。

空気に飲まれた。完敗だった。30分後には、スタバに似つかわしくない女なのだと涙をこらえて敗走していた。

 

不思議なのは、他のコーヒーチェーン店には一人で入れることだ。

高校時代には、サンマルクカフェの隅の席で模試の見直しをするのが好きだった。

大人になった今、最も受験頻度が高いのは英語試験。中でもIELTSは1日がかりの試験だが、午後のSpeaking試験に備えてタリーズを利用することが多かった。

出張の朝に立ち寄っていたのはルノアールかVELOCEだった。

様々なチェーン店があるが、椿屋珈琲はヘビーユーザーだ。友達と語らいたい時も、一人で読書をしたい時も、場所に悩んだら取り敢えず椿屋珈琲を探す。

なぜか、スタバだけがダメなのだ。

 

ある日、職場でスタバが話題になった。スタバはただのチェーン店なのに、どうしてあんなにブランド力を保てるのだろうという疑問から始まり、皆でごちゃごちゃ論争を楽しんでいた。

「私、3000円分のスタバカードを持っているんですけど、使えないまま半年が過ぎたんですよね。スタバってなんか行きづらくないですか?」

質問を投げかけると、意外にも賛同を得た。なんとなく行かないし、行く機会もない。仮に暇つぶしが必要な時にもドトールタリーズを選んでしまう、と私が考えているのと同じような意見だった。

しかし、スタバ大好き派も存在しており、全国各地・世界各地にあるスタバのタンブラーを集めるのが趣味だと語っていた。そう言えば、友人の中にも、海外旅行をすると絶対にスタバへ立ち寄ってマグカップを購入するという人がいる。男女問わず、スタバでコレクションをするのを楽しみにしているファンは多いらしい。スターバックスリワードにしても、フラペチーノのような期間限定商品やタンブラーのような地域限定商品にしても、スタバは収集癖のある人に満足感を与える仕組みを作るのが上手い。

「なんで、ヨシナリさんはスタバへ行かないの?」

質問の主であるスタバ大好き先輩は、世界各地のスタバへ訪れた強者だ。飲み会は2次会まで参加するというパリピ陽キャ感に加え、語学も堪能。そうそう、スタバに通う人ってこんなイメージだよねと頷きたくなる先輩だ。

「まず近くにスタバがない。次にヨシナリは陰キャ。この2点ですかね」

「あるじゃん、一駅先に。スタバに寄ってから出勤すればいいじゃん。コーヒー持って、一駅分歩くのも良い運動になるよ。会社に到着した時には、いいくらいにコーヒーも冷めてるんだよね」

発想がすでに陽キャなのよ。スタバに寄る時間あるなら、お家でインスタントコーヒー飲んでるのよ。スタバよりも勉強がはかどるし。

スタバ大好き派と陰キャ女。

ああ、一生運命が交わることはないのだろうか。私は、スタバでフラペチーノpost on Instagramを体験できないのだろうか。

 

絶望した私のもとに、語らいのお誘いinスタバがきたのは、数日後のことだった。

 

東京出張中の友人と会うことになった。午前中に私の職場の近辺で用事があるとのことで、約束した時間は私の始業前。落ち合う場所は、スタバ。一駅先からコーヒー片手に優雅に職場までの道のりを散歩し、ドヤ顔で執務室に入るチャンスが到来したのだ。

前日夜にはビバレッジのメニューを検索し、しっかり予習もしておいた。サイズ表記を間違わないぞ、とか。コーヒーもいいけどせっかくならフラペチーノが飲みたいぞ、とか。緊張のせいで「カスタム~」なんて口走るような失態はおかすなよ明日の自分は責任が取れないからな、とか。

ドヤ顔入室チャンスを失うが、やっぱりこの機会にフラペチーノが飲みたい。

フラペチーノを飲んだのは、47都道府県限定フラペチーノが発売された2021年頃が最後だだ。あの時は勇気を出して、1か月で3店舗も回ったわけだが、引っ越しという特殊事情で気持ちが高揚していたからこそ成せた技だった。

こういう普通の時。友人と会う時に、誰かと一緒にフラペチーノを飲んでみたい。

そう固く誓って、毛布にくるまり、真横のぬいぐるみにおやすみを告げた。

 

友人よりも一足先に現地へ到着したが、これは正解だった。

スタバは朝から混んでいる。だが、友人と明るく話す場とするには気が引けてしまいそうなほど静かで、勉強をしている社会人が客の大半を占めていた。

前日は「3000円もあるし、サンドウィッチでも買おうかな」と考えていたが、まったくお腹が空いていなかったので諦めることにした。スタバのフードを楽しむのは、将来に持ち越すことにしよう。

「お決まりですか?」

キャピキャピというより落ち着いた女性店員から、定型的な質問をされる。

スタバは落ち着いている。店内は静か。女性店員は美人。

ああ、もう逃げ出したい。私みたいなの場違いやねんて。陰キャはお家でインスタントコーヒーすすっておくのが丁度ええねんて。

脳内で後悔を大合唱した私が口をついて出てきたのは、

「あ、ソイラテのトールで……、あ、あと、支払いはこのカードって使えますかね?」

……いや、フラペチーノちゃうんかい。

どもってるし、カード使用できるか質問しちゃうし。超絶ビギナーなのは、バレたことだろう。

 

メンタルをすり減らして手に入れたソイラテをすすりながら、友人に席を確保したことをLINEする。

スタバカードの残高は2510円になった。次こそは、フラペチーノを頼むのだ。それも、ちょっとオシャレな限定品を頼むのだ。

こんな意気込みをしてしまうほど、フラペチーノと心の距離が遠いのだ。

今回も完敗しましたが、ごちそうさまでした。

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一人では生きられないから

小学1年生の頃に人類最悪の歴史的事項に名を連ねるホロコーストの存在を知って以来、信じつけていることがある。

それは、人間は一人では生きられないということだ。

社会を回しているのは助け合い、コミュニケーションだ。どんな小さい仕事であっても、目に見えない部分だとしても、自分は誰かに支えられている。

なんてことは、私も理解しているのだ。

 

だが、それはそれとして、私は他人に頼ることが得意ではない。甘えることも苦手。

たまにSNSでは「男性は女性に奢るべき」論争が炎上しているが、奢られても絶対に相手に後から送金してしまう性格なので、呟きを読みながら背筋が凍る。奢る奢られる論争がなければ、もっと世界の私のメンタルも平和が保たれるはずだ。

いや、でも、奢る奢られる論争も、人間は一人で生きていけないからこそ生じる問題であって、きっと私のような性格の人間が世界に溢れかえってしまったら、社会からコミュニケーションが途絶えてしまうのだろうと。それこそ、人類最大の悲劇だ。奢る奢られる論争は、世界が平和な証なのだ。

 

……などと講釈をたれてみるものの、他人に頼るのが苦手な私にとって、人間社会は非常に生き辛い場所だ。まるで自分が他の惑星からやって来た知的生命体かのような語り方をしているが、私は人間だ。念の為。

 

今の部署には直上の上司や部下がいない。室内にいる同僚とは上下関係がないフラットな関係性。自分に裁量があるので、決裁を差し戻されて締め切りを徒過するなんてトラブルも発生しない。自分でスケジュール管理でき、自分より立場が上の人にも意見を申せる図太さメンタルの強さがあれば、仕事もサクサク進めることができる。

前者は問題ない。私は友人から「狂気」と称されたこともあるほど、きっちりと日程管理をするタイプだ。

着任当初に戸惑ったのは後者だった。電話口では「あ、あの……」とどもらなければ会話を始められないほど、コミュニケーション能力が低いためである。だが、1年半も過ごせば図太さ強いメンタルも培えてきたと実感している。

そのとおり!!今の部署はキョドリ&ドモリのダブルパンチを食らっているコミュ障女にも安心安全超絶快適な「人を頼らずとも何とかやっていけるポスト」なのだ!!!!

そう思っていた。

有給を取得するまでは。

 

お盆の1週間後にちょっとした案件が発生することになった。

仕事の予定の有無に関わらず9月に帰省する私にとって、お盆返上は気にする事象ではない。むしろ、皆のいないお部屋を独り占めできてヤッホーと浮かれてしまうくらいだ。

8月後半に案件を終えて、私は安心して遅ればせながら夏季休暇の計画を立て始めた。自分のやるべき仕事をまとめあげ、金曜日の夜にビールを一気飲みするような清々しさで新幹線の指定席を探し始めた。

だが、ここで予想外の事態が起こる。

完結になったはずの案件が、むしろ最高潮ともいえるほどの大炎上を巻き起こしたのだ。

「大丈夫ですよ、それなら夏季休暇取らないので」

担当者からの説明を聞いた私は、当たり前のように周囲の同僚に休暇を取らない意向を伝えた。

自分の案件が炎上したなら、対処のために休まない。当然のことだと思っていた。だから、先輩からの一言をあまり素直に受け止められなかった。

「え?何を言っているの?ダメだよ、夏季休暇取らないと。夏季休暇取得は労働者としての権利なんだから」

「いや、でも、私の案件が燃えちゃってますし。それに、9月に取れなくても10月に有給取って帰省しますし」

「10月は別に休めばいいけど、別で夏季休暇も取らないとダメ」

窘められても、有給休暇が重要であるようには思えなかった。

なぜなら、私は他人に頼るのが苦手なのだ。

私が休んでいる間の調整は?ファイルの整理は?作成した文書を別のフォルダに保管されたら?今回はいつもと違うから、AさんだけじゃなくてBさんやCさんとも調整しないといけない。私が休むと皆にしわ寄せがいくし。それに、起案しないといけなくなったら、誰がやんねや?

どばどばと湧き上がる不安や心配を処理する方法が、

「……色々考えるの面倒なので、やっぱり夏季休暇いらないです」

となるわけだ。自分が夏季休暇を取らない方が、ストレスフリーで心が安らぐ。

しかし、同僚からは認められなかった。

「夏季休暇って長くても1週間とかでしょ?うちは皆の担当案件が異なるとはいえ、フォルダの中身を見ればだいたい内容も分かるんだし、休みなよ」

私は他人に頼るのが苦手なだけではなく、押しにも弱い。

だから、数人の同僚から「休みなよ」と囲まれると「ア、ハイ、ヤスミマス」とあっさり転向し、夏季休暇申請を提出することになった。休暇中に自分宛への連絡が来たらどうしようと頭を抱えながら。

 

帰省をして2日目まで、私はカフェの中でもスマホで社内メールを確認していた。夜には帰省先の実家にまで持ち帰ったPCを開いた。1日でも離れると、社会から取り残されるような気がした。自分の案件なのに、自分の存在が消えてしまうようで怖かった。

上手く回っているだろうか、トラブルが発生していないだろうか……。

せっかくケーキを頼んでも、生クリームが動物性か植物性かよりも気になるのは、Aさんと同僚の調整状況。愛犬のトイプードルから「なでろ!私に構え!1年間に2回しか帰省しない小娘が!!」と前足ちょちょい攻撃を受けるものの、左手で適当に対応して右手は貼りついたかのようにマウスを操作。

だが、3日目あたりで、私が調整しなくても状況は進展していくことに気がついた。

自分が職場にいなくてもいいのだ。休みたい時に休めばいいのだ。

気づくと、心の奥にあった塊がフォンダンショコラのようにじわじわと溶けだして、安心感が広がった。

そして、とても疲れてしまっていた自分に気がついた。

 

何を当たり前のことを、と笑われる方もいることだろう。

休暇取得なんて当たり前。同僚の休暇の際に代理をするのも当たり前。

しかし、他人に頼るのが苦手な私にとっては、当たり前ではなかった。

休む間に業務を引き継ぐことすら負担になってしまい、仕事があることが自分の存在意義だという紐づけ誤りをしてしまっていたからだ。

仕事はあくまで仕事だ。そして、人間は一人では生きていけない。

私が休めば別の同僚がやってくれるし、同僚が休めば自分が代理で連絡をする。

もっと早くから。深く考えずに休みをとり、他人を頼れば良かったのだ。

 

「あなたは、なんでも一人でできて偉いね。しっかり者だね」

独立独歩な性格だ。自分一人でテキパキと物事を進められる私は、大人からそう褒められて育った。また、進路や将来を考える際にも、基準の一つは「一人で生きていけるかどうか」だった。

たまに「自分に対して甘い、成功するとすぐに調子にのる」と言われると、自分を甘やかすのは絶対悪だと言い聞かせるようになった。

一人で生きていくこと。誰にも頼らずに生きていくこと。誰に対しても甘えないこと。

これらを信条として物事をこなすと、さらに「あなたは一人でできるから」と頼る人のいない環境に置かれることが増え、結果として今の部署のような一人きりで役割をこなす機会が増えた。

これでは悪循環だ。

一人で生きていきたいならば、一人では生きられないことを自覚しないと。

はからずとも個人商店的ポストの勤務で、私は誰かに頼って生きる大切さを教わったのだった。

 

さて、なぜ今これを書いているかというと、久しぶりに体調を崩して有給を取得したからだ。

翌週に海外旅行を控え、何が何でも体調回復に努めなければならない。なんせ私の留学前最後ともなるアジア旅行。大学生の頃に親と交わしていた約束を叶える旅行。新型コロナウイルス感染症の流行により、海外旅行すら貴重なものだという教訓を得た。この機会を逃すと、二度とアジアを旅行できないかもしれない。

一方で、旅行前日には自分が主担等の案件で動きがあるので、仕事でも正念場だった。それなのに体調を崩すなんて、自己管理がなっていない。

微熱が出ている。さあ、どうしよう。

ワーカーホリックの思考癖は簡単に直るものではなく、バファリンを摂取して他の同僚の出勤前にPCを回収しに職場へ向かった。自宅でも調整内容を確認できるようにするためだ。

だが、今回はお盆の時の一件から、すでに先輩を常々メールの㏄に含めるようにしていたので、引き継ぐべき事項も多くない。そのため「調整をお願いします」と依頼メールを送付した後は、PCを閉じて寝ておくことにした……ごめん、ちょっと嘘つきました。朝8時と夜7時にメールをチェックしました。寝ていたのは、同僚の勤務時間内のお話です。

PC回収しに行っている時点で、相当ワーカーホリック且つまともな思考回路ではないかもしれないが、自分の中では調整メールを送り、勤務時間内に睡眠を取っただけでも進歩した方だと思っているのだ。だって、今までの自分なら、確実にテレワークに切り替えて仕事をしていたはずだから。

千里の道も一歩より、と思っておこう。

この一歩が、数年後の自分の心に輝きをもたらしてくれることだろう。

【2023年下期】読書記録と雑感

天邪鬼な性格が災いし、流行りものを敬遠してしまう。見たり、観たり、触ったりすると、気に入ることの方が多いのに、なぜか流行の波に乗るものかと意固地になってしまうのは悪い癖だ。

 

定額読み放題サービスである「Kindle unlimited」の利点は、大流行した小説が対象タイトルに含まれていることである。

例えばHarry Potter and the Philosopher's Stone」(J.K.Rowling)から始まるハリーポッターシリーズは、原書と翻訳版がともに全巻揃っている。社会人になり英語学習を再開した頃に、ペーパーブックの「Harry Potter and the Philosopher's Stone」を購入したのだが、英語力が低くて断念してしまった苦い記憶がある。

だが、今回は違う。和英辞典がついているKindleが味方だ。分からない単語も即解決できるというメリットを最大限活かし、原書版でのハリーポッターシリーズの読破を目標に掲げた。

この挑戦は、英語力の維持には効果的かもしれないが、読書の喜びや楽しみはすり減ってしまっているように思う。

読めども読めども終わりにたどり着かず、精神的にも辛い。その上、読書の時間は有限だから、他の本を読む時間もなくなっていく。

私がやっているのは読書?それとも英語学習??

亀の歩みで2024年現在、第5巻の半分以上まで到達した。終わりが見えているようにも感じるが、第6巻と第7巻はさらに分厚くなるらしいとも聞くと、折り返し地点にも到達出来ていない可能性すらある。

読書冊数が減ったとしても、気長に頑張っていくこととしたい。

 

また、他の作品を読んだ後に気になる作者の本が対象タイトルに含まれていると、嬉しくなったりする。例えばコンビニ人間」(村田沙耶香文藝春秋も、芥川賞受賞当時は天邪鬼な性格から敬遠していた本のうちの一冊だ。30代半ばの女性がコンビニで働く話、というあらすじから、自分の目標とする生き方とはかけ離れていると判断していた本だった。

しかし、村田沙耶香さんの「殺人出産」や「生命式」や「消滅世界」などの気持ち悪い世界観(褒めています。)の中毒症状に陥った私は、「コンビニ人間」を読まなければ村田沙耶香作品を語ることなんてできないとさえ考えるようになり、ようやく読んでみることにした。コンビニを題材にしても、独特の気持ち悪い世界を構築してくださったお陰で、想像の翼を広げられた私はセ〇ンやファ〇マへ行くのも楽しむことができそうだ。

 

このように流行作品をKindle Unlimitedで楽しむようになると、対象タイトルに含まれていない流行も追ってみたくなった。

気持ちが高じて購入したのは「同志少女よ、敵を撃て」(逢坂冬馬、早川書房だ。私は1900年代の歴史が大好きだし、そもそも軍事史がやりたくて志望大学の選定をしたし、一人でロシア旅行計画を立てるくらいロシアも好きだ。そう、本作品は自分の趣味嗜好にピッタリとはまっているはず。それなのに手に取ろうとしなかったのは、流行を追いかけたくなかっただけでなくて、歴史学を大学で学んでいた自分の性格の悪いプライドみたいなものが混ざっていた。いや、この時代を舞台にした作品を好きになる一般人が本当にそんなにいるの?みたいな。

結果。もっと早く読めばよかったと後悔した。

序盤のライトノベルのような文章は少し軽いようにも思ったが、壮大な独ソ戦を舞台にした少女の成長物語は、読後感は初めて映画「シンドラーのリスト」を鑑賞した時と同じように、とても爽快なものだった。この重苦しい舞台設定でも、歴史や軍事に馴染みのない読者からの人気を勝ち取ることのできる本作と作者は尊敬に値する。また、私は以前に「戦争は女の顔をしていない」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、岩波書店を読んだことがあったので、世界観が繋がったことにも心が満たされた。

 

また、小説だけではなく新書であるスマホ脳」(アンデシュ・ハンセン、新潮文庫も購入してみた。こちらも、スマホの使用による脳への影響を分かりやすく書いており、とても人気の高い作品だ。何度も購入しようかと思ったのだが、人気過ぎて逆に怪しさを感じてしまい読んでいなかった本だ。

結果。もっと早く読めばよかったと後悔した。

スマホなんて小さい画面を見つめていたら身体に悪影響が出るだろうなと軽い考えしかもっていなかったのだが、現実はもっと厳しかった。人間がスマホの毒から逃れることはできないと分かり、スマホの利便性を手放せない自分は「嘘だ!!!」と叫びたい気持ちになったほどだ。

だが、思い返すと、便利なスマホに馴染めない点は多々ある。外国語の勉強にも使っているスマホだが、紙の単語集の方が覚えやすいと感じて、本を買ってしまったり。インスタグラムのおすすめ投稿に「#結婚しました」が現れて、彼氏すらいないアラサー独身女は自己嫌悪に陥ったり。一人で映画を観たり、本を読んだりする時間が一番落ち着くし、最も活用しているSNSは自分専用のジャーナリングアプリだ。ジャーナリングアプリを使ってる時でさえ、方眼ノートに気持ちを書き連ねる方が性に合うと考えることもある。

それなのに、スマホという蜜を吸いまくっている私は、もう手放すことができない。スマホから離れるためにも、読書の時間を増やさなければと強く思う。知識と世界を内側に広げていくために。読みたい本をスマホで探すという矛盾はあるのだけれど。

 

さらに、Kindle Unlimitedのお陰で、以前に読んだことのあるお気に入りの作品を再読することもできた。

社会人になり、限られた時間とお金しか読書に充てられなくなった。それならば、新しい作品にリソースを割く方が得だろうと思っていたのだが、対象タイトルに含まれているなら話は別だ。グラスホッパー」(伊坂幸太郎、角川文庫)は中学生くらいの頃に購入して、学校の図書館でも借りていたくらい何度も読み返していたが、10年も経つと内容をかなり忘れていた。

購入していなかった「マリアビートル」(伊坂幸太郎、角川文庫)なんて、新幹線で発生した殺人事件と檸檬と七尾というざっくりした記憶しか残っていなかったので、初読みの気分になった。当然、はやてとこまちが移動できないなんて覚えていなかったので、これで幼稚園児に若返れるのかな。ばぶばぶ。いや、ばぶばぶまで若返りたくないか。大人としての楽しみを味わえるくらいの時間を永遠に楽しみたいので、大学入学時の10年前くらいに戻るので十分だ。

 

1月1日という世界中の人々が幸せを願う日に地震が発生し、立て続けに旅客機と輸送機が衝突する痛ましい航空事故が発生した。航空事故が発生した際、紛糾する旧青い鳥SNSをスクロールしながら「失敗の科学」(マシュー・サイド、ディスカヴァー・トゥエンティワンを思い出した。

なぜ人間は失敗するのか?なぜ飛行機の墜落事故が発生したのか?

今回の事故後の世間の反応は、本書で例示された事故を追体験したかのようだった。

きっと本書を読んでいなかったら、私も同じような疑問と非難を行っていたことだろう。時間をかけて失敗の原因を探ることの重要性なんて考えずに。知っていたからこそ、私は誰かを傷つけないですむことができたのだと思うと、読書経験に感謝せずにはいられない。

 

私にとって、本は想像上の体験を提供してくれる大切な存在だ。2024年も誰かと心を共にできる本にできることを期待したい。

2023年が終わりそう

2023年は印象の薄い年である。ここ5年ほど、私は毎年、自分史年表に記載ができるほどのイベントが発生していた。大学卒業、就職、引越しなどと、10年後に振り返っても思い出せるような出来事ばかりだ。それに引き換え、2023年。何も発生していない。国内一人旅も体調を崩して機会を失ってしまったし、カレー百名店巡りも2022年を最後に途絶えてしまったし、セルフネイルも面倒になり爪の表面を磨くだけになったし、友達と飲みに行ったのも数える程度だし、英語の試験も受けなくなった。最後だけは良い兆候か。
そんなわけで、2033年に2023年を語ろうとしても、話題が去るのを笑顔でじっと待つという状況が発生しそうだ。
今回は、こんな未来を回避すべく、2023年の思い出を語っていきたい。

①体重が6~7㎏減少
 これが日頃の運動の成果なら喜べるところだが、ストレスと節約の結果と言えば見方が変わるだろう。このまま行くと、BMIが18.5を切りそうなところ、冬は太る体質のために踏みとどまることができている。食べても吐き気をもよおしたり、口内炎で唇が腫れていたりという事情から、朝食は食べていないのに昼飯はおにぎり2個で精一杯という状態になった。大学時代よりも痩せたと、ポジティブに捉えておきたい。

②地毛に戻そうキャンペーンの展開
 留学にあたっての心配事は様々だが、スマホの契約や基礎化粧品や常備薬と並び、ヘアカラー事情もその一つだ。日本女性の8割以上が定期的なヘアカラーを楽しんでいるだろうし、私もその一人だった。インナーカラーも入れており、髪色を楽しむのも好きだ。しかし、ヨーロッパでも日本と同じような技術力を誇る美容師と出会えるのだろうか。それに、英語も満足に話せない自分が、好みのカラーをオーダーできるとも思えない。日本のヘアサロンへ行くのすら苦手で、キラキラ美容師を前にして毎回キョドっているのに。元来の心配性も相まって、私は渡航前までに地毛に戻すことに決めた。
 垢抜けて見えない不安はあるが、これは前向きな変化だと思っている。まだ3分の1ほどの長さしか地毛に戻っていないが、頭頂部に近い髪の方が調子もいい。何より、カットとトリートメントのみなので、家計に占める美容費が大幅にダウンした。このまま白髪が増えるまで、地毛を貫き通してみたいと、脆い目標も立ててみた。

ビジネススクールの短期講座を受講
 1年前から興味のあったソーシャルデザインの講座に約3か月間通い、終了証をもらった。

 大学院で研究したい内容とも繋がるカリキュラムであり、きっと将来的に役立つだろう。しかし、グループディスカッションなども含まれたカリキュラムにおいて、オンラインだけの授業の限界も感じてしまった。初対面の人が集まっているので、ディスカッションの時にも、「第一声は自分以外の方どうぞ」という遠慮と譲り合いと押し付け合いが混ざった不透明な間が生まれてしまうのだ。せめて初回は対面であれば、他の受講生とも打ち解けられた気がしている。何はともあれ、職場以外での学びの機会を得られて良かった。

④クズみたいな男たちとの出会い
 私は他人からなめられやすい……と常々書いているが、如実に表れているのが異性との関わりだと思う。特に今年は、ご飯に誘われ、場合によっては旅行にまで誘われていたのに、深く追及すると婚約者や彼女がおり、「でも本当に好きなのはアナタ!」と主張する男性に複数回遭遇した。ブルータス、お前もか。カエサルも草葉の陰でびっくり仰天していることだろう。友人からは縁切り神社参りを推奨されたので、京都へ行く際の予定に組み込みたい。

⑤駅ホームからの転落事故
 インフルエンザや新型コロナとは無縁の超健康優良児の私だが、非常にドンくさい。前々からよく躓いたり、転びかけたり、滑ったりしていたのだが、アラサーにして初めて駅ホームから片足を転落した。太腿が駅のホームと電車の隙間に挟まった状態だ。足がちょん切れるのではないかと内心パニックに陥った。骨折は免れたが、太腿一帯に青あざができて、全治2週間の診断が下された。たかだか全治2週間だが、たかだか打撲で病院へ行くほどの非常事態だったと思ってほしい。転落したことよりも、駅員すら転落した私に気が付かず、乗客も手を貸してくれなかったことに涙が溢れてきた。

なんと5つしかなかった!!!しかも暗いものばかり!!!!
仕方がないので、2024年上半期にやりたいことでも書いておく。日本で暮らす人生最後の期間になるかもしれないので、全力でやりたいことリストを消費していきたい。名付けて、日本に禍根を残さないキャンペーン(注:人生最後の期間ではありません。)。

・1人アフタヌーンティー
・1人焼肉
・1人ディズニーランド
・1人旅(小樽・新花巻・伊豆・金沢のどこかへ行きたい)
・海外旅行(アジアのどこか)
・ミュージカルを観る
・ワーナーブラザーズスタジオへいく
ゴスロリを着て写真を撮る
・眉のアートメイクをする
・軟骨ピアスをあける
・イタリア語の問題集を1冊仕上げる
TOEICとIELTSを受ける                                            
・週に2回は英語で日記をつける
・出勤前のオンライン英会話を再開する
・週末はオンラインイタリア語レッスンを受講する
ハリーポッターを読み切る(英語と日本語の両方)                          ・(進学する大学院で必要そうなら)Adobeソフトのお勉強

 

まあまあやりたいことが多かったし、探せばもっと出てきそうだ。

そういえば、2020年は目標をほぼ達成できていなかったらしい。

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翻って2023年は、実は目標の難易度を下げたので、イタリア語検定の受験以外はほぼ達成することができた。IELTS6.5も取得できたし、体重も減ったし、duolingoも毎日できたし、毎月3冊以上の読書もできたし、総資産も目標額を達成した。しかしながら、2020年から達成できていないイタリア語検定の受験は、自分の中でどれだけ優先度が低いのかと情けなくなってくる。

2024年は上記のやりたいことリストを消費することとしたい。

あと、何とか大学院に合格しなければ……。あまりやる気がわかないが、年末年始は、Statement of Purposeの作成期間にあてることとしよう……。

皆様もよいお年をお迎えください。

久々に関西へ戻って

今年の目標に最低一か所一人旅を掲げていたのだが、 体調不良や多忙により叶えられないまま早くも11月を迎えてしまった。いや、少し嘘だ。時間なら探せばあった。 スカートの裾からほつれた糸を引っ張りだすように、 多少の時間は作れるものなのだ。

自分の怠惰の性格のせいという答えの方が、よほど真実に近い。 休みがあれば昼寝をしたい、 五千円浮いたなら貯金をしておきたい、とそんな具合だ。

あと1年もたたないうちに日本から飛び立つのだから、悩まずに日本縦断にでも出かければ良いのに、そんなやる気を欠片も見せないのは私だからだ。

そんな折、関西にある母校からキャリア講座の講師を依頼された。 講座自体は3時間程度なので、日帰りでも対応可能だ。 暇人なので二つ返事で引き受けられるのだが、メールを作成しながらふと今年の目標が脳内に点滅した。

せっかくなら、有給をもらって旅行してみようか。

東京では両手の指で数え切れるほどの浅い交友関係しか築けていないが、関西には会いたい人が多くいる。 両手に右足の指を足したくらいの人数はいる。

コロナによって遠くで暮らす人と会う機会がめっきり減った。 定期的に連絡を取っている人ならまだしも、いきなり私から連絡をとって迷惑ではないだろうかと気遣いながら のLINEを送る。講師以外の用事も湧いてしまい、 友人に連絡を取ったのは旅行の1週間前というギリギリになってしまったが、彼ら彼女らはとてつもなく優しいので快く私と会う時間を作ってくれた。糸を引っ張るようにスルスルと。 一人旅でも怠惰を発揮して、近くのコンビニで買ったポテチとビールとケーキを抱えてホテルに引きこもりという夜を過ごすことが多いのだが、ありがたいことに全ての食事をそれぞれ違う友人と楽しめることに なった。

「最後に会ったのいつやっけ」

「コロナ始まったくらいで、私が信州行く前とかやから、 3年以上経ってるかな」

答えながら、奇妙な感覚になった。もっと何回も彼らと会っていたのではないか。もしくは3年も経っていないのではないか。いや、 朧げな記憶は確かに1年という感覚ではない。 長い1本道の先に立っている友人が米粒のようにしか見えないのと同じような気持ちだ。

私は都内で定期的に会う友人とよく、時の流れが分からないという話をする。 大学入学時点でネピア色の写真をコルクボードに貼り付けるように 時間が固定されて、自分が何も変わっていないように錯覚する。 顔に皺やシミが浮き出たわけでもなく、体重も変化ない( むしろこの1年間で痩せたので、20歳の時と同じくらいだ。)。 胸やお尻が垂れたと感じることもない代わりに、 お腹はぷにぷにしたままだ。不思議なことに、大学入学式の10代 だった自分を見ても変わっているように思えない。 むしろ今の方が若返っているように思う。ちなみに母親からは「 あの時よりもメイクが上手になったからじゃない? 今の方がナチュラルだもん」と言われたのだが、 一理ある気はしている。

ともかくとして、だいたい女友達と話すときは

「私たち、変わらないよね。 全然老けたように思えなくて怖いんだよね」

「でも、確実に老けてるはずではあるんだよね。だって、 もうすぐ大学入学してから9年くらいになるんだから」

「私たちが、年齢を感じる日が来るのはいつなんだろう」

という方向になり、底なし沼に落ちていくような恐怖も湧いてきて、 答えは出ないまま別の話題へと移るのだ。

 

3年ぶりに会った友人を見て驚いたのは、体形の変化だった。 数人の男友達と会ったのだが、全員、 体重が増加していて一瞬誰だか分からなかったほどだ。

私はその時、自分が時間の変化を老けたかどうかという点のみで捉えてしまって いたことに気がついた。彼らは老けたわけではない。外見は20代にしか見えないし、肌にもハリがある。けれども、彼らはもっと細身だったし、あの頃とは違う。

これが時間の変化なのかと不思議な感覚にとらわれた。 目の前で浦島太郎が玉手箱を開けられた人たちも同じ気持ちになっ たのかもしれない。

時間は重い。それなのに、 自分の時間は無限にあるように錯覚して空気のように遣ってしまう。他人を見てから初めて気がつくのだ。彼らが変わっているのだから、自分だけが変わらないなんてあり得ない。

私は自分が変わったと思う方が健康的なのだろうか。変わっていないと思う方が安心できるのだろうか。

変わるとは成長するとも言い換えられる。その点で言うならば、 英語やイタリア語能力も多少は向上しているし、 歌謡曲のワンフレーズにでもありそうな出会いと別れを繰り返したので、変わったこともあるだろう。悲観的になることもあるが、大まかには喜ばしいことであるはずだ。

しかし、小さい頃ならば喜べた成長する変化を喜べなくなっている自分もいる。それは、変化が衰えに言い換えられる年齢になったからだ。

成長はしたい。でも衰えたくない。大変な贅沢だ。 日本の予算を積んでも叶わないほどに。

こんなことを考えてしまっている時点で、 私は十分に年齢を重ねてしまったのだと苦笑する。

 

その1週間後、大学時代の友人の結婚式に出席した。 私たちは3人グループだったのだが、 大学時代は毎日のように一緒にお昼ご飯を食べて、 たまの休日にはウィンドウショッピングに出かけていた

「ヨシナリの結婚式出る時は、このドレス着て参加しような! おそろいで」

「いいね、可愛いやん」

「気が早いやろ、まだ結婚しないで」

「でも、絶対にお互いの結婚式には出ようね。絶対に呼ぶね」

あれが若いってことだったのかなと思う。笑い声で物事を解決できていた。

そして約束どおり、私と友人はお揃いのドレスを着て、もう1人の友人の結婚式に出席した。3人の中で結婚するなら、 彼女が一番乗りだろうなと予想していたら、その通りになった。 あんな冗談と笑い声をかき混ぜた約束でも、 叶うことはあるのだと思うと挙式前から景色がぼやけて見えていた 。受付をしながら「ヨシナリ、早いよ」 と冷静にもう1人の友人から突っ込まれた。

ふわふわのウェディングドレスに身を包んだ友人に手を振りながら 頭をよぎったのは、1週間前に出会った友人達のことだった。

 

1週間前の帰り道に、 高層ビルから山間部へと流れゆく景色を追いながら、 私は泣いていた。

変わることと変わらないことの均衡を保てるのは、今の仕事でも、 今の都市でもない。転職して、関西に帰って、マンションを買って、時々親しい人達と会えれば、私は寂しさから逃れることもできる。知り合いのいない東京の狭いコミュニティにいるのは疲れてしまった。

たぶん、これも、変わるということなのだろうな。

でも、あともう少しだけ、今の仕事とこの街で頑張ってみますか。

また会おうね、関西。

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こころとからだ

突然、充電が切れた。ベッドから起き上がれない。私には、たまにこういうことがある。

たっぷり寝た後、お寿司とビールを堪能したくなり、回転寿司へ出かけた。お昼からのビールが、夜よりも数倍美味しいのは、気持ちの瓶を幸福感でいっぱいにしてくれるからだろう。

 

最近の私には、なにか特別なことなんて起こっていない。仕事をして、帰宅して、晩御飯を食べて、寝るだけ。同じことの繰り返しだ。ゆえに、この雑文の話題を探すのすら一苦労である。

だから、最近視聴している海外ドラマと私の記憶について書こうと思う。

 

Netflixのオリジナルドラマの中ではかなり有名だと思うが、あまり他人には勧められない作品。それが『セックス・エデュケーション』だ。セックスセラピストの母親を持つ主人公の男子高校生が、学校でセックス相談を始めるという学園ドラマである。

タイトル名を人前で発することさえ勇気が必要だ。少なくとも私は、会社の同僚と

「ねえねえ、ヨシナリさんは最近、何のドラマを観ているの~?」

「最近は、セックス・エデュケーションにハマっているんだ~」

という会話をする勇気はない。それだけ、私にとって、そしておそらく社会において「セックス」という語のインパクトは強いということだ。

だが、近寄りがたい題名に反して、このドラマはかなり面白い。性教育を主題にしており、涙もろい私は毎回泣いている。イギリス英語の勉強ができるところも、4シーズン計32話で完結しているところも、とても良い。

本作には、あらゆる性の問題が登場する。性経験がないことを悩む人、パートナーとの関係に悩む人、自分のジェンダーに迷いを持つ人、性被害者になってしまった人……と性的な問題のすべてを網羅しているのではないかと思うほどだ。

 

この作品を見て考えたのは、性の話題をどこまでオープンにするべきなのかという点だった。

『セックス・エデュケーション』では、性的な悩みは人間にとって当たり前だとして、性的な事柄も自分らしくあることに必要不可欠だというポジティブなメッセージを送っている。私自身も、性的な事柄を秘め事と捉えず、気軽に悩みを打ち明けられる場を作ることは重要だと考える。

日本の性教育が遅れているとは、よく言われる。

例えば、ピルについての認識。

私は現在ピルを服用している。

性的なパートナーを持たない私がなぜ服用しているかというと、生理不順で予定がたてられず、仕事でも不安を抱えていたからだ。生理痛も軽いものでなく、生理の日はいつもバファリンを飲まなければ生活ができないし、胃腸の調子が悪くなり、一日中何も食べなくても生きていけるほど食欲がなくなる。それでも我慢していたのだが、ある時にストレスからか不正出血がおこり、ピルを飲むことを決めた。毎月3000円程度かかるとし服用を続けるのは面倒とはいえ、生理周期が定まっただけで、私は多くのストレスから解放された。

だが、母親とカフェへ行ったときだった。食事の時間とピルの服用時間が重なり、仕方なく私は彼女の前でピルを取り出した。

「ねえ、それ何を飲んでいるの」

正直、母親には聞かれたくないなと思った。未成年ならともかく、私は20代後半だ。見なかったふりをしてほしかった。なぜなら、自分には彼女の反応が予想できていたからだ。

「ピルだよ」

「え!!あなた、ピルなんて飲んでるの!?」

語尾があがり、非難してくる口調。ほら、こういう反応になると思っていた。

「ピルなんて、そんなもの飲まない方がいいのよ。身体に悪いんだから」

母親の時代では、ピルは避妊目的で飲むものという認識だ。だから、生理痛の緩和のためにピルを飲むという感覚がない。それではなぜ、母親の知識がアップデートされないかというと、性知識を学ぶ場がないからだ。

このような親子間の気まずさを軽減するためにも、正しい性知識の普及が図られるべきだと強く感じる。

 

私は今まで、性の相談をオープンにすることに否定的だった。友人に対しても性の悩みを話すのが好きではないし、上手く説明できないが、踏み込んだらいけないプライベートな領域だと感じてしまうからだ。

海外のドラマでは、パートナーとの性生活をあっけらかんと真っ昼間から友人に打ち明けるシーンがよく登場するが、私にはとても無理だ。日本酒を飲みながらなら何とか……という程度だし、実際に相談したことは数える程度しかないと思う。

 

けれども、『セックス・エデュケーション』を観て、少しだけ考えが変わった。それは、大っぴらに話さずとも、きちんとした相談体制は作られるべきだと思うようになったからだ。

作品内に、登校中のバスの中で精子をかけられるという性被害にあった女の子が登場する。最初は陽気に「何でもないこと。お気に入りのジーンズが汚れちゃっただけだから。警察に行っても気にしすぎだと思われちゃうから、行かないでいいわ」と友人に話すのだが、その姿が自分の記憶を刺激してしまった。

 

私が高校時代、学校帰りにショッピングモールのフードコートに立ち寄った時のことだった。

その時に端っこの席に座っていたのに、深い意味はない。陰キャゆえ端っこの席が好きなだけだ。

音楽を聞きながら、本を読み、たまにジュースを啜っていた私は一人の高齢男性に話しかけられた。

「どこの高校なの?〇〇高校?××高校?」

ここで離席すれば良かったのだろう。だが、角席だった私は逃げ道を失ってしまった。回り込まれ、隣に座られたからだ。

「〇〇高校です」

と仕方なく答えてしまった私のことをとても馬鹿だと思われるかもしれないが、まだ高校生だったので許してほしい。

それから男性は、私に様々なことを話し続けた。

君は可愛い、女性は勉強をする必要がない、君は自慰行為をしているのか、勉強をしすぎるよりも性行為をすることの方が大事だ、などという発言であった。

どうしたら良いか分からず、私はとりあえず高齢男性の機嫌を損ねないようにすることだけを考えた。つまり、柔らかな笑顔で、頷いていることだ。

叫ぶとか、逃げるとか、そのような発想は浮かばなかった。ここで彼が逆上したら、これ以上の事態が発生するかもしれない。大事になるかもしれないし、学校や親にも知られてしまうかもしれない。

不安の方が強く、その場を穏やかに乗り切る方がはるかに重要だった。

最後に高齢男性は、今日は君の姿を想像してオナニーをすると言って去っていった。

そして、それからしばらく、私はショッピングモールへ行けなくなった。

 

私はこの出来事を誰にも言わなかった。

先生や親から怒られると思ったからだ。

ショッピングモールへ行くのが悪いとか、助けを呼ばないからだとか、なぜ逃げなかったのかとか、自分にかけられるであろう様々な言葉を考えると、自分の精神状態を保てる自信がなかった。そして実際に今でも、私の両親であれば、何の気なしにこれらの発言をして、私の心に傷を残す結果になっただろうとは想像できる。

当時は性被害だという認識もなく、自分の八方美人な性格や小柄な外見のせいで変な男性に絡まれたという認識でいた。そして、恐らく、他人もそう考えたことだろう。

高齢男性に対して丁寧な対応をした私にも非があるはずだと。

だから、『セックス・エデュケーション』で性被害にあった女の子の気持ちはよく分かる。

 

今まで、性に関する相談体制を構築するべきという考えはなかったが、自分の出来事を思い返しても、絶対に必要であると思う。

訴えづらい話題だからこそ、性被害者でなく性加害者が100%悪いのだと言ってくれる第三者がいてほしい。

私もあの時、親や学校に告げられないけれども、どこかに相談できる窓口があれば、心をケアすることもできただろう。

 

性の話はデリケートだ。しかし、人生で避けて通れない話題でもある。

日本でも、性教育の充実や相談体制が整えられる未来を祈っておきたい。

 

東京コンプリートゲーム。だから世界を革命したい。(後編)

30分以上も汗の臭いが充満した満員電車に運ばれた先にあるのは、桃源郷とは程遠い場所だ。理不尽な電話、ちょっとしたイジり、急な連絡調整。耐えなければいけない様々なことを想像すると、疲労感が吹き出してくる。

大事なことは一つだけ。ココロのHPを満タンに。

どうやって満タンにするのかというと、私の場合は簡単だ。左腕におさまる腕時計を撫でるだけ。

世界を革命する力は、ここにある。

 

少女革命ウテナ』というアニメ作品は、1997年に放送された作品にも関わらず、今でも根強いファンがいる。放映当時は1歳児だった私は、当然リアルタイムで視聴しておらず、本作品を知ったのは大人になってからだ。絵柄は古さからは想像できないのだが、キャラクターやストーリー構成はむしろ時代を先取りしたような内容であり、25周年記念の腕時計を購入するほどウテナの虜になった。

余談だが、私が幾原邦彦監督の作品を知ったのは、リアルタイムで視聴していた2015年の『ユリ熊嵐』だった。大学生活開始前日に、家具もない部屋で最終話を観て涙が止まらなかったことは、今でも忘れられない。私の人生を変えた作品だ。

 

さて、本題の『少女革命ウテナ』は、幾原邦彦監督の代名詞としても語られる有名作品だ。面倒なので、あらすじはWikipediaから抜粋する(少女革命ウテナ - Wikipedia)。

幼い頃に自分を助けてくれた王子様に憧れ、自分も王子様になりたいと願うようになった少女・天上ウテナは、入学した鳳学園で「薔薇の花嫁」と呼ばれる少女・姫宮アンシーと出会う。エンゲージした者に「永遠」に至る「世界を革命する力」を与えるという「薔薇の花嫁」をかけて戦い続ける生徒会役員(デュエリスト)たちは、ウテナがかつて王子様から貰った指輪と同じ「薔薇の刻印」と呼ばれる指輪を持っていた。ウテナもまたこの決闘ゲームに巻き込まれ、その背後にある「世界の果て」へと迫っていく…。

あらすじを読んでも「なんのこっちゃ」というのが感想だろう。幾原邦彦作品はとにかく説明が難しいのだ。

主人公の天上ウテナは、決闘に勝利して姫宮アンシーとエンゲージする。そして、エンゲージしたいと願う他のデュエリストたちから決闘を挑まれる立場になるのだが、エンゲージ中の者は決闘の前に「世界を革命する力を!」と叫び、姫宮アンシーの胸から剣を引き抜くのが毎回の決闘シーンだ。

この印象的な「世界を革命する力」という言葉だが、作中では曖昧な説明しかされておらず、最後まで釈然としない。それゆえ、今でもWeb上で見られる数多くの考察でも取り上げられている要素の一つにもなっている。

私は最初、「世界を革命する力」のことを時間や原子など、世界を構成するあらゆる要素を改変できるような力なのだろうと文字通りに受け取っていた。デュエリストたちは「世界を革命する力がほしい!」と言いながら、ウテナに決闘を申し込むので、人間の力を超越した概念的な要素までもを創造できる力なのだろうというイメージがあった。穿った見方をすると、主人公のウテナが決闘に負けるはずがなく、最終話で「世界を革命する力」を手に入れたウテナは自分のためでなく他人のため(例えば、エンゲージ中のアンシーを幸せにするなど)に使うのだろうとも思っていた。

ネタバレになるのでこれ以上は触れないが、視聴後すぐに、私は自分の考えが違っていると気がついた。

「世界を革命する力」は特別なものではなく、誰もが持っている。「(自分の精神)世界を革命する力」の意味で、いわゆる「自己変革」のことなのだ。

 

変化の激しい現代社会において自己変革は必須だ。常に自分をアップデートしなければ、時代に取り残されてしまう。カズオ・イシグロのNever let me go信者である私は、懐かしい価値観を抱きしめたまま踊ることも大事ではないかという気持ちも捨てられないのだが、現代社会を泳ぎ回る以上、そんなことは言っていられない。

だが、自分を変えることは難しい。

例えば、今後の人生を考える上で、まずは東京コンプリートゲームから降りた方が良いだろう。アラサーで留学を考えている時点で、大半の女性が想像する人生プランとは別のコースを選択しているのは自明だ。それにも関わらず「どうして他の人ほど幸せになれないのだろう?」なんて考えるのは馬鹿げている。

冷静に考えればこのように一蹴できるのだが、私はどうしても東京コンプリートゲームへの欲望を諦められない。幸せな結婚、幸せな家庭、幸せな仕事という、バラ色に引き寄せられてしまい、自分の人生が灰色に見えてしまう。悲しくて、悔しい。灰色を幸せだと思えず、限りある人生をバラ色で縁どれないことに涙するのだ。

私の周囲の友人の中には、堂々と「結婚する気はないかな。一人で十分な収入はあるし」と言っている人もいる。彼女たちはとても立派だ。私がなぜ彼女たちのようになれないかというと、いつまでも「ひとりは不幸、愛されていない証拠」という固定観念が心の中に居座っているためだ。そして、私のことを好いてくれている人はいるかもしれないが、一番に好いてくれる人はいないことは客観的な事実でもある。大抵の場合、恋人がおらずとも血縁者が自分に無償の愛を注いでくれるので、世界のどこかには自分を一番に好いてくれる人がいるのだろうけど、残念ながら私はそうではない。ゆえに私は昔から、グループを作っても一人だけ余るとか、見知らぬ場所に一人で取り残されるとか、不幸な状況が多発している。

 

このような認識の下で、どうしたら自己変革ができるのだろう。

前編において、私は環境や判断軸を変えることが解決方法だと書いた。問題は、どうすれば自分の環境や判断軸を変えられるのかという部分だ。他人とのコミュニケーションが苦手な自分にとって、新しい環境に飛び込むのは容易ではない。精神的疲労感の方が大きい。

それでは、人生に目標を設定し、目標を叶えれば自然と環境の変化も得られるようにしてみるというのはどうだろう。

逆算すれば、まずは自分がどのような人間になりたいかを考える必要がある……のだが、私の理想像は空っぽだ。

なんと、人生の目標を設定する以前に、理想像を組み立てるのが自己改革の第一歩になるわけだ。

自分には理想像が見つからない。人生に失敗したくないという感情しかない。人生に失敗するとは、他人と同じような人生を歩めないこと。それなら、すでに27歳にもなって独身で恋人すらいない私は、人生に失敗していることになる。

失敗しているなら、やはりゼロからやり直さなければならない。

だから、世界を革命する力がほしいのだ。自分の悩みに対する根本的な解決にはなっていないことは分かっている。けれども自分の内面世界を変えていくため、私はこれから先もずっと、この方法を探し続けていくことだろう。

 

時計を撫でる。長剣を模した秒針は狂いなく世界を切り取り、文字盤に刻み続けてゆく。

自分の世界を革命する力があれば、何だって乗り越えられる。

変わりたいし、変えていきたい。今日がだめでも、明日にはチャンスがあるかもしれない。ちょっとは気持ちが上向く日だって来るかもしれない。だから今日もこの大都会を制覇するべく、扉を開けるのだ。

東京コンプリートゲーム。だから世界を革命したい。