イタリアでの日々は遠いものになりました。
海外生活が長くなると、日本語が出なくなるという笑い話を耳にしたことがあります。母国語が不自由になるなんて信じられないけど、自分もそうなるのかな、なんて。コンビニでおにぎりを買った後に染み付いたGrazieが口から飛び出すのではと思いきや、そんなことも起こらず。驚くほどすぐに、私は日本の生活に順応しました。
冷蔵庫に貼り付けているカラフルなマグネット達をなぞります。本当にこの都市を巡ったのだろうかと疑っている自分がいました。
ありえない。別世界じゃないか。本当はイタリアへ行っていないのかもしれない。夢の中の出来事だったのかもしれない。
信じられなくなるくらい早く、あの日々は記憶から遠のいていきました。
帰国日はゴールデンウィーク初日。連休中に協力を得つつ、荷物の整理をしました。新生活は留学前の想定と大きく異なっていました。新しい環境に慣れるのに必死で、イタリアでの日々を懐かしむ余裕があまりなかったことも、記憶の上書きが滞りなく完了した要因だと思います。
しかし、私は大学院修了を理由に帰国したわけではありません。まだ卒業論文の執筆が残っていました。卒業論文を提出し、卒業試験に合格せねば修士号は取得できない。よって、先生から数週間に一度のペースでオンライン指導を受けることとなりました。
日本にて、イタリアで出会った先生と話す。画面の向こうで明るく笑うのは、実際に何度もお会いしたあの先生に違いない。
私がイタリアにいたのは夢でも別世界の出来事でもなく、この空のずっと奥での出来事だったのだと、指導を受ける度に時空が歪んだような気持ちになっていました。
イタリアの大学には卒業式がありません。年に複数回用意されている卒業試験日に卒業試験を受けて、即日で卒業合否が決定します。晴れて合格が得られれば、その日の午後に卒業証書を授与されて終了です。その後、家族や友人と卒業をお祝いするという流れです。
私の大学院では、卒業試験に10分間のプレゼンテーションが求められていました。事前相談によりオンライン参加も可能とのことでしたが、卒業証書を確実に受け取りたかったこともあり、夏季休暇を利用して現地で卒業試験を受けることにしました。
帰国日と卒業試験日が事前に決定していたことが功を奏しました。中東情勢が傾く前から旅程を決められたので、比較的安価に航空券を入手できました。それに合わせて、卒業式で被る月桂冠(Corona di Alloro)も現地のお花屋さんにて、造花でオーダーメイド。参考イメージ画像を見せつつ予算40ユーロと伝えたところ、オリーブの葉の周りに可愛いピンクのお花を織り込んでくれました。イタリアの卒業試験日は月桂冠を被るのが伝統なのです。
修士論文の完成前だったけれど、卒業試験日に必要となるほとんど全ての用意を終えて、日本へ帰国をしたのでした。
6月末に卒業論文は無事に提出。卒業試験日は滞りなく決まりました。翌日、勤め先からは日本で働くことになる新しい部署を伝えられました。
卒業論文を書いている時は、まだ夢の続きにいたのかもしれない。安い豚コマ肉を求めるスーパーまでの道のりでさえ、日本へ帰国して良かったと思えていたのだから。
熱した金属がふっと冷たい空気に触れて、徐々に硬さを取り戻していくように、留学前の日常へと移り始めていました。私の人生が、将来が、時間軸が固定されていくかのように。
OLに戻った私にとって、再びイタリアへ向かうことは何となく億劫でした。卒業試験がなければ戻る必要はないのにと、なぜだか気が重くなりながら空港へ向かいました。
それでも、3か月ぶりにイタリアに降り立つと「戻ってきたな」という感覚で満たされていました。もうシェアルームは引き払っていたから、わずか3泊の滞在先はご近所にあったホテル。フロントのおじさんは英語で説明を試みてくれるものの、とても話しづらそうにしていました。イタリア語で良いよと伝えると、早口のイタリア語でホテルの説明をしてくれました。
懐かしいな、イタリア人は英語が苦手な人が多いもんね。
いつの間にか、簡単なイタリア語なら理解できるようになっていたのは、これが日常だったから。
これが日常だったはずなのに、今の私は一体全体どこにいるのでしょう。
翌日はドゥオーモへお出かけしました。
何度も訪れた綺麗な広場と壮大な大聖堂。息を飲んだガレリア。さすが歴史のある土地。10年やそこらで風景は変わりません。
ドゥオーモ前にある広場は、自分にとって特別な思い入れのある場所でした。
20歳だった私は広場を一回転しました。明るくて開放的でお洒落。こんな夢のような場所でも日常生活を送る人がいるのか。自分もこの風景の一部になれるかもしれないと胸を弾ませていました。
いつか絶対にイタリアで生活する、海外大学院へ進学すると決めた場所。そして私が夢を叶えて、日常へと変わった場所。
もう数え切れないほど訪れているのに、惚れ惚れとする荘厳な大聖堂はこの日も変わらず、新鮮な驚きに包まれてしまいました。
卒業試験日の前日に、タイムスケジュールが発表されました。私の試験開始時間は正午でした。その30分後から卒業合否発表と卒業証書の授与が始まるとの連絡でした。
しかし、時間どおりに始まらないのがイタリア。私の試験が始まったのが12:30でした。本当に、最後までイタリアです。練習したかいあり、プレゼンテーションは笑顔で締めくくれました。
卒業試験日には自分の友人を招待することができます。久しぶりの連絡をしたところ、友人達は快くプレゼンテーションを見に来てくれました。グループワークも何度も組んだイラン人の女の子は、大きなブーケとシャンパンも用意してくれていました。もちろん、どちらもピンク色。人種や民族を問わず、友人から見た私のイメージはピンクなのかと、はにかんでしまいました。
さらに、日本人の友人に月桂冠を預けていたのですが、月桂冠とともに、シャンパンを持ってきてくれました。なんとシャンパンが2本!
「あ、シャンパン持ってきたけど、コップがない……。持ってきてる?」
「うん、私が持ってる」
「さすがだね〜」
初対面の友人2人が小声でヒソヒソと段取りを相談。面白かったです。どちらのシャンパンを飲むかは私の直感によりすぐに決定し、イラン人の友人が持ってきてくれたシャンパンを日本人の友人が持ってきてくれたプラスチックカップにいれて乾杯しました。
乾杯を終えて彼らと別れた後は、イタリア人の友人のご家族が私達日本人をお食事にご招待してくれました。
「あら、あなたが日本人のヨシナリね。はじめまして、息子と仲良くしてくれてありがとう」
ステキなお母様の挨拶を聞きながら、人種や民族を問わず、親が自分の子どもの友人と出会った時の挨拶は変わらないのだなと思いました。お辞儀ではなく握手で締めくくるのは、少し違うかもしれないけれど。
想像より充実していたイタリア生活最後のイベントでした。
帰国日の朝、無性に悲しくなりました。イタリアに戻ってから、どこか日常に戻ってきたような感覚がありました。
明日はスーパーでパスタソースを買い占めないと。お米も買っておかないと。ヨーグルトは残っていたっけ。
そんなことを考えてから、現実に引き戻されるのです。
もう、イタリアには生活基盤がない。この日常は失われて、永遠に戻ってこない。
憧れだけに手を伸ばして、ここまでたどり着きました。
絶対に海外大学院へ進学して修士号を取得する。
帰国子女でもなく、英語は大の苦手で、英語どころか勉強自体もそこまで得意ではなくて。青春時代の私を知っている人に目標を語っていたら、無謀すぎると笑われていたことでしょう。
こんなに頑張らなくても良いんじゃないか。
甘い言葉に流されかけたことも一度や二度ではありません。なかなか結果の出なかった英語の資格試験から始まり、自力で作成したポートフォリオの準備、蚊とハエが飛び回るシェアルーム、真冬に水しか出なくなったシャワー、我の強いルームメイトとこなすグループワーク、英語コースなのにイタリア語の飛び交うディスカッション……。その都度、こんなはずではなかったと少し後悔しかけて、現地ではホームシックを抱えながらも立ち直りました。
頑張って良かったなと強く思います。辛いことも多かったけれど、終わり良ければすべてよし。挑戦したことに一遍の悔いなしです。
私の夢の終着点が見えてしまいました。物語ならここで晴れ晴れしくフィナーレを迎えられますが、ここは現実。終着点にたどり着いても、その先の人生は続いていきます。
最近ようやく、イタリアへ戻りたいと考える日が増えてきました。いつか海外駐在してもいいかなと想像できる日もあります。もう日本での生活で満足すると思っていたのに。二度と海外なんて行かないと思っていたのに。
おそらく、イタリアでの生活を前向きに捉え始められるようになったのでしょう。楽しかったことも、苦しかったことも吸収できて、自分の記憶が身体に馴染んできたのだと思います。
「大丈夫だよ、ヨシナリみたいな刺激中毒なタイプは、留学を終えたらすぐに、別の刺激を探し始めるから」
留学中に出会った日本人の友人からの言葉です。
そうなのかもしれません。
夢の終着点は、次の夢の出発点。
さようならイタリア。たくさんの思い出をくれました。私の人生を変えたあの広場で、またいつか再会できますように。
































