Weekly Yoshinari

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プリンセスに憧れて(後半)

前回、私がフェミニズムに抱くモヤモヤを書いたところで終わったため、ようやく「プリンセスとフェミニズム」という本題に入りたいと思う。

 

結論から言うと、私はプリンセスとフェミニズムを結びつけるのは誤りだと考える(以下、プリンセスはあくまで世間一般の知っているディズニー映画のプリンセスです。)。フェミニズム及びジェンダー論を考える取っ掛りとしては最適だと思うが、例えば「プリンセス=女の子らしさの象徴」という当てはめから、プリンセスの存在を否定することには違和感を覚える。プリンセスを通して性差を教えるのではなく、生き方の多様性を教えるべきだ。女の子がプリンセスに憧れても、男の子がプリンセスに憧れても良いのだと。

 

昨今、女性の社会進出や男女平等が叫ばれるようになったことに伴い、プリンセス像は徐々に変化してきた。私があえて書かなくても、著名な論者が語っているものと思料するが、例えばディズニー映画の「白雪姫」と「ラプンツェル」を比較すると、プリンセス像の時代性が浮き彫りになる。白雪姫が悪役である母親から逃れ、七人の小人に匿われているのに対し、ラプンツェルは母親に「死ぬまであなたに抵抗する」と言い切り、自分から運命を変えることを試みる。白雪姫が受動的なのに対して、ラプンツェルは非常に能動的なのだ。どちらが好きかと言うと、ラプンツェルのように自分で自分の道を切り拓くタイプが好みだが、だからと言って、逆説的に「白雪姫は抑圧された女性の典型」と論じてはならないのではないだろうか。さらに、ラプンツェルのような女性像を持って「これからの時代の憧れ」等と考え方を肯定するのも誤りだと思う。

このような議論を聞くたびに、なぜ「白雪姫でもラプンツェルでも、自分の好きな方の生き方を選べば良い」という個人主義が浸透しないのかと疑問に思う。白雪姫のように、王子様に救われることを願い続けることについて、本人がそれで満足ならば他人がとやかく言うべきではない。

ラプンツェルのように自分から動かないと、待ってるだけじゃ何も変わらないよ?」

そんな反論をする人もいるだろうし、私も同意する。だけど、それはあくまで発言者が、自分から行動できる人間であり、行動できる環境にあるからだ。自分から行動することが、性格的・身体的な観点から難しい人だっている。他人の状況を知らないまま、能動性を求めるのは、発言者のエゴではないだろうか。まして、それを女性像として一般化するのは、視野狭窄に陥りかねない。

加えて、私は、白雪姫のストーリーラインに救われる人も、少なからずいると考える。例えば、虐待やいじめ等で、自分の人生に自信を持てない子ども。いつの日か自分のことを愛してくれる人が現れるはずだと、願うことの大切さを語るには、ラプンツェルよりも分かりやすい。抑圧された境遇にある時、ラプンツェルのように自分から動くことは、かなり難しいはずだ。子どもは尚更、知力も財力も乏しいため、簡単には劣悪な環境から抜け出せない。そのような時、白雪姫のように「いつか王子様が」と願うことの大切さが身に染みるのではないだろうか。

 

このようなプリンセス像の観点からだけではなく、私がプリンセスを用いるべきでないと思うのは、ジェンダー以外の観点からの批判点を加味せずに、それぞれのプリンセスを批判する論調があるからだ。

例えば、シンデレラ。シンデレラ・ストーリーという言葉もあるが、私達は一般的に、この物語を成功物語として捉える。継母の虐めに耐えて、辛くても諦めなかった結果、ガラスの靴を頼りに王子様が見つけてくれる。確かに、現実では起こりえなくて、どこまでも夢物語で、そして素敵なお話だ。

このように「夢があってステキ!」とだけまとめると、ジェンダー論のテクストとして用いる際には、色々と批判されがちだ(出典なくてごめんなさい。)。学者が言うには、この物語には、様々なツッコミ要素があるという(あ、これも出典ない……。)。「シンデレラは幸せを得る努力をしていない」とか「ガラスの靴落としたのわざとでは」とか。本当にそうだろうか。

シンデレラを論じるならは、まずは教育論等から始めるべきだ。虐待された子どもに及ぼされる影響等、論文はいくらでもあるだろう。毎日のように継母から虐められている少女が、家出をするという発想に至ることができるだろうか。押しつけられた仕事を毎日こなすだけで、彼女は他人よりも努力をしているものと思われる。辛い状況でも、夢を持ち続けたこと。これこそが、シンデレラの素晴らしさであり、物語が伝えたかった内容だと思う。この点を無視して、ジェンダー的な観点から物語を批判し、女性像の話へと昇華させることには疑問が残る。

 

おそらく、ここまでの話を通して、専門的に勉強されている方にとっては、色々と反論点があるものと思われる。私はこの分野に関して、あくまで外野の人間であるし、私が少数派かもしれないとも自覚している。最後に、こんな私が考える理想の男女平等を述べて、今回の雑文を締めたい。

それは、レッテル貼りをやめて、個人の趣味嗜好が尊重される世の中に変化することだ。

最近では、メディア等で「令和の女性像」という文言が散見される。

いや、何やねん。「令和の」って。そこでカテゴライズする必要ないんちゃうの。

……などと、私は記事を目にしては突っ込んでしまう。

強い女性もステキ。おしとやかな女性もステキ。男性の三歩後ろを歩くような女性が好きな男性がいても、率先して家事育児を楽しむ男性がいても、他人がとやかく言う必要ないだろう。そして、実際に、男性をたてる方が得意な女性だって、仕事をバリバリこなす方が得意な女性だっている。自分の意見と違う人間に対して、「価値観が昭和」とか言わないで良いだろう。他人を不幸にしない範囲で本人が幸せなら、昭和の価値観でも尊重するべきだ。

自分が全体主義を好まないからかもしれないが、私は個人主義自由主義が中心である世の中になってほしい。理想の女性像を語るよりも、他人の目を気にしないことと自分の考えを持つこと(ここで言う、自分の考えを持つとは、海外の教育のように、プレゼン能力を高めようという意味ではない。別に、自分の考えは必ずしも口にすべきものとは思わない。夢とか目標とか、自分なりの生き方を決める考えは、自分の心の中にだけあれば良くない?)を大切にしてほしい。

 

 

結局のところ、私はディズニー・プリンセスが好きなので、自分の好きなものが否定されるのが悲しいだけです。

いつ見ても、プリンセスって夢あってステキね。また観よう。