Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

こころとからだ

突然、充電が切れた。ベッドから起き上がれない。私には、たまにこういうことがある。

たっぷり寝た後、お寿司とビールを堪能したくなり、回転寿司へ出かけた。お昼からのビールが、夜よりも数倍美味しいのは、気持ちの瓶を幸福感でいっぱいにしてくれるからだろう。

 

最近の私には、なにか特別なことなんて起こっていない。仕事をして、帰宅して、晩御飯を食べて、寝るだけ。同じことの繰り返しだ。ゆえに、この雑文の話題を探すのすら一苦労である。

だから、最近視聴している海外ドラマと私の記憶について書こうと思う。

 

Netflixのオリジナルドラマの中ではかなり有名だと思うが、あまり他人には勧められない作品。それが『セックス・エデュケーション』だ。セックスセラピストの母親を持つ主人公の男子高校生が、学校でセックス相談を始めるという学園ドラマである。

タイトル名を人前で発することさえ勇気が必要だ。少なくとも私は、会社の同僚と

「ねえねえ、ヨシナリさんは最近、何のドラマを観ているの~?」

「最近は、セックス・エデュケーションにハマっているんだ~」

という会話をする勇気はない。それだけ、私にとって、そしておそらく社会において「セックス」という語のインパクトは強いということだ。

だが、近寄りがたい題名に反して、このドラマはかなり面白い。性教育を主題にしており、涙もろい私は毎回泣いている。イギリス英語の勉強ができるところも、4シーズン計32話で完結しているところも、とても良い。

本作には、あらゆる性の問題が登場する。性経験がないことを悩む人、パートナーとの関係に悩む人、自分のジェンダーに迷いを持つ人、性被害者になってしまった人……と性的な問題のすべてを網羅しているのではないかと思うほどだ。

 

この作品を見て考えたのは、性の話題をどこまでオープンにするべきなのかという点だった。

『セックス・エデュケーション』では、性的な悩みは人間にとって当たり前だとして、性的な事柄も自分らしくあることに必要不可欠だというポジティブなメッセージを送っている。私自身も、性的な事柄を秘め事と捉えず、気軽に悩みを打ち明けられる場を作ることは重要だと考える。

日本の性教育が遅れているとは、よく言われる。

例えば、ピルについての認識。

私は現在ピルを服用している。

性的なパートナーを持たない私がなぜ服用しているかというと、生理不順で予定がたてられず、仕事でも不安を抱えていたからだ。生理痛も軽いものでなく、生理の日はいつもバファリンを飲まなければ生活ができないし、胃腸の調子が悪くなり、一日中何も食べなくても生きていけるほど食欲がなくなる。それでも我慢していたのだが、ある時にストレスからか不正出血がおこり、ピルを飲むことを決めた。毎月3000円程度かかるとし服用を続けるのは面倒とはいえ、生理周期が定まっただけで、私は多くのストレスから解放された。

だが、母親とカフェへ行ったときだった。食事の時間とピルの服用時間が重なり、仕方なく私は彼女の前でピルを取り出した。

「ねえ、それ何を飲んでいるの」

正直、母親には聞かれたくないなと思った。未成年ならともかく、私は20代後半だ。見なかったふりをしてほしかった。なぜなら、自分には彼女の反応が予想できていたからだ。

「ピルだよ」

「え!!あなた、ピルなんて飲んでるの!?」

語尾があがり、非難してくる口調。ほら、こういう反応になると思っていた。

「ピルなんて、そんなもの飲まない方がいいのよ。身体に悪いんだから」

母親の時代では、ピルは避妊目的で飲むものという認識だ。だから、生理痛の緩和のためにピルを飲むという感覚がない。それではなぜ、母親の知識がアップデートされないかというと、性知識を学ぶ場がないからだ。

このような親子間の気まずさを軽減するためにも、正しい性知識の普及が図られるべきだと強く感じる。

 

私は今まで、性の相談をオープンにすることに否定的だった。友人に対しても性の悩みを話すのが好きではないし、上手く説明できないが、踏み込んだらいけないプライベートな領域だと感じてしまうからだ。

海外のドラマでは、パートナーとの性生活をあっけらかんと真っ昼間から友人に打ち明けるシーンがよく登場するが、私にはとても無理だ。日本酒を飲みながらなら何とか……という程度だし、実際に相談したことは数える程度しかないと思う。

 

けれども、『セックス・エデュケーション』を観て、少しだけ考えが変わった。それは、大っぴらに話さずとも、きちんとした相談体制は作られるべきだと思うようになったからだ。

作品内に、登校中のバスの中で精子をかけられるという性被害にあった女の子が登場する。最初は陽気に「何でもないこと。お気に入りのジーンズが汚れちゃっただけだから。警察に行っても気にしすぎだと思われちゃうから、行かないでいいわ」と友人に話すのだが、その姿が自分の記憶を刺激してしまった。

 

私が高校時代、学校帰りにショッピングモールのフードコートに立ち寄った時のことだった。

その時に端っこの席に座っていたのに、深い意味はない。陰キャゆえ端っこの席が好きなだけだ。

音楽を聞きながら、本を読み、たまにジュースを啜っていた私は一人の高齢男性に話しかけられた。

「どこの高校なの?〇〇高校?××高校?」

ここで離席すれば良かったのだろう。だが、角席だった私は逃げ道を失ってしまった。回り込まれ、隣に座られたからだ。

「〇〇高校です」

と仕方なく答えてしまった私のことをとても馬鹿だと思われるかもしれないが、まだ高校生だったので許してほしい。

それから男性は、私に様々なことを話し続けた。

君は可愛い、女性は勉強をする必要がない、君は自慰行為をしているのか、勉強をしすぎるよりも性行為をすることの方が大事だ、などという発言であった。

どうしたら良いか分からず、私はとりあえず高齢男性の機嫌を損ねないようにすることだけを考えた。つまり、柔らかな笑顔で、頷いていることだ。

叫ぶとか、逃げるとか、そのような発想は浮かばなかった。ここで彼が逆上したら、これ以上の事態が発生するかもしれない。大事になるかもしれないし、学校や親にも知られてしまうかもしれない。

不安の方が強く、その場を穏やかに乗り切る方がはるかに重要だった。

最後に高齢男性は、今日は君の姿を想像してオナニーをすると言って去っていった。

そして、それからしばらく、私はショッピングモールへ行けなくなった。

 

私はこの出来事を誰にも言わなかった。

先生や親から怒られると思ったからだ。

ショッピングモールへ行くのが悪いとか、助けを呼ばないからだとか、なぜ逃げなかったのかとか、自分にかけられるであろう様々な言葉を考えると、自分の精神状態を保てる自信がなかった。そして実際に今でも、私の両親であれば、何の気なしにこれらの発言をして、私の心に傷を残す結果になっただろうとは想像できる。

当時は性被害だという認識もなく、自分の八方美人な性格や小柄な外見のせいで変な男性に絡まれたという認識でいた。そして、恐らく、他人もそう考えたことだろう。

高齢男性に対して丁寧な対応をした私にも非があるはずだと。

だから、『セックス・エデュケーション』で性被害にあった女の子の気持ちはよく分かる。

 

今まで、性に関する相談体制を構築するべきという考えはなかったが、自分の出来事を思い返しても、絶対に必要であると思う。

訴えづらい話題だからこそ、性被害者でなく性加害者が100%悪いのだと言ってくれる第三者がいてほしい。

私もあの時、親や学校に告げられないけれども、どこかに相談できる窓口があれば、心をケアすることもできただろう。

 

性の話はデリケートだ。しかし、人生で避けて通れない話題でもある。

日本でも、性教育の充実や相談体制が整えられる未来を祈っておきたい。