Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

東京コンプリートゲーム。だから世界を革命したい。(後編)

30分以上も汗の臭いが充満した満員電車に運ばれた先にあるのは、桃源郷とは程遠い場所だ。理不尽な電話、ちょっとしたイジり、急な連絡調整。耐えなければいけない様々なことを想像すると、疲労感が吹き出してくる。

大事なことは一つだけ。ココロのHPを満タンに。

どうやって満タンにするのかというと、私の場合は簡単だ。左腕におさまる腕時計を撫でるだけ。

世界を革命する力は、ここにある。

 

少女革命ウテナ』というアニメ作品は、1997年に放送された作品にも関わらず、今でも根強いファンがいる。放映当時は1歳児だった私は、当然リアルタイムで視聴しておらず、本作品を知ったのは大人になってからだ。絵柄は古さからは想像できないのだが、キャラクターやストーリー構成はむしろ時代を先取りしたような内容であり、25周年記念の腕時計を購入するほどウテナの虜になった。

余談だが、私が幾原邦彦監督の作品を知ったのは、リアルタイムで視聴していた2015年の『ユリ熊嵐』だった。大学生活開始前日に、家具もない部屋で最終話を観て涙が止まらなかったことは、今でも忘れられない。私の人生を変えた作品だ。

 

さて、本題の『少女革命ウテナ』は、幾原邦彦監督の代名詞としても語られる有名作品だ。面倒なので、あらすじはWikipediaから抜粋する(少女革命ウテナ - Wikipedia)。

幼い頃に自分を助けてくれた王子様に憧れ、自分も王子様になりたいと願うようになった少女・天上ウテナは、入学した鳳学園で「薔薇の花嫁」と呼ばれる少女・姫宮アンシーと出会う。エンゲージした者に「永遠」に至る「世界を革命する力」を与えるという「薔薇の花嫁」をかけて戦い続ける生徒会役員(デュエリスト)たちは、ウテナがかつて王子様から貰った指輪と同じ「薔薇の刻印」と呼ばれる指輪を持っていた。ウテナもまたこの決闘ゲームに巻き込まれ、その背後にある「世界の果て」へと迫っていく…。

あらすじを読んでも「なんのこっちゃ」というのが感想だろう。幾原邦彦作品はとにかく説明が難しいのだ。

主人公の天上ウテナは、決闘に勝利して姫宮アンシーとエンゲージする。そして、エンゲージしたいと願う他のデュエリストたちから決闘を挑まれる立場になるのだが、エンゲージ中の者は決闘の前に「世界を革命する力を!」と叫び、姫宮アンシーの胸から剣を引き抜くのが毎回の決闘シーンだ。

この印象的な「世界を革命する力」という言葉だが、作中では曖昧な説明しかされておらず、最後まで釈然としない。それゆえ、今でもWeb上で見られる数多くの考察でも取り上げられている要素の一つにもなっている。

私は最初、「世界を革命する力」のことを時間や原子など、世界を構成するあらゆる要素を改変できるような力なのだろうと文字通りに受け取っていた。デュエリストたちは「世界を革命する力がほしい!」と言いながら、ウテナに決闘を申し込むので、人間の力を超越した概念的な要素までもを創造できる力なのだろうというイメージがあった。穿った見方をすると、主人公のウテナが決闘に負けるはずがなく、最終話で「世界を革命する力」を手に入れたウテナは自分のためでなく他人のため(例えば、エンゲージ中のアンシーを幸せにするなど)に使うのだろうとも思っていた。

ネタバレになるのでこれ以上は触れないが、視聴後すぐに、私は自分の考えが違っていると気がついた。

「世界を革命する力」は特別なものではなく、誰もが持っている。「(自分の精神)世界を革命する力」の意味で、いわゆる「自己変革」のことなのだ。

 

変化の激しい現代社会において自己変革は必須だ。常に自分をアップデートしなければ、時代に取り残されてしまう。カズオ・イシグロのNever let me go信者である私は、懐かしい価値観を抱きしめたまま踊ることも大事ではないかという気持ちも捨てられないのだが、現代社会を泳ぎ回る以上、そんなことは言っていられない。

だが、自分を変えることは難しい。

例えば、今後の人生を考える上で、まずは東京コンプリートゲームから降りた方が良いだろう。アラサーで留学を考えている時点で、大半の女性が想像する人生プランとは別のコースを選択しているのは自明だ。それにも関わらず「どうして他の人ほど幸せになれないのだろう?」なんて考えるのは馬鹿げている。

冷静に考えればこのように一蹴できるのだが、私はどうしても東京コンプリートゲームへの欲望を諦められない。幸せな結婚、幸せな家庭、幸せな仕事という、バラ色に引き寄せられてしまい、自分の人生が灰色に見えてしまう。悲しくて、悔しい。灰色を幸せだと思えず、限りある人生をバラ色で縁どれないことに涙するのだ。

私の周囲の友人の中には、堂々と「結婚する気はないかな。一人で十分な収入はあるし」と言っている人もいる。彼女たちはとても立派だ。私がなぜ彼女たちのようになれないかというと、いつまでも「ひとりは不幸、愛されていない証拠」という固定観念が心の中に居座っているためだ。そして、私のことを好いてくれている人はいるかもしれないが、一番に好いてくれる人はいないことは客観的な事実でもある。大抵の場合、恋人がおらずとも血縁者が自分に無償の愛を注いでくれるので、世界のどこかには自分を一番に好いてくれる人がいるのだろうけど、残念ながら私はそうではない。ゆえに私は昔から、グループを作っても一人だけ余るとか、見知らぬ場所に一人で取り残されるとか、不幸な状況が多発している。

 

このような認識の下で、どうしたら自己変革ができるのだろう。

前編において、私は環境や判断軸を変えることが解決方法だと書いた。問題は、どうすれば自分の環境や判断軸を変えられるのかという部分だ。他人とのコミュニケーションが苦手な自分にとって、新しい環境に飛び込むのは容易ではない。精神的疲労感の方が大きい。

それでは、人生に目標を設定し、目標を叶えれば自然と環境の変化も得られるようにしてみるというのはどうだろう。

逆算すれば、まずは自分がどのような人間になりたいかを考える必要がある……のだが、私の理想像は空っぽだ。

なんと、人生の目標を設定する以前に、理想像を組み立てるのが自己改革の第一歩になるわけだ。

自分には理想像が見つからない。人生に失敗したくないという感情しかない。人生に失敗するとは、他人と同じような人生を歩めないこと。それなら、すでに27歳にもなって独身で恋人すらいない私は、人生に失敗していることになる。

失敗しているなら、やはりゼロからやり直さなければならない。

だから、世界を革命する力がほしいのだ。自分の悩みに対する根本的な解決にはなっていないことは分かっている。けれども自分の内面世界を変えていくため、私はこれから先もずっと、この方法を探し続けていくことだろう。

 

時計を撫でる。長剣を模した秒針は狂いなく世界を切り取り、文字盤に刻み続けてゆく。

自分の世界を革命する力があれば、何だって乗り越えられる。

変わりたいし、変えていきたい。今日がだめでも、明日にはチャンスがあるかもしれない。ちょっとは気持ちが上向く日だって来るかもしれない。だから今日もこの大都会を制覇するべく、扉を開けるのだ。

東京コンプリートゲーム。だから世界を革命したい。