Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

プリンセスに憧れて(前半)

ミルクを加えたコーヒーをかき混ぜながら、今日も私はディズニー映画を漁る。

気高くて、美しくて、最後にキスとともに幸せを手にするプリンセス。素敵だ。花束のような明るさは、毎日に疲れた私の心を溶かしていく。私には叶わない夢だと分かっている。それでも、羨ましく思わずにはいられない。

女の子なら誰でも一度は憧れるーープリンセスを語る時、このような枕詞をつけることが多い。

これは、あながち間違っていないとは思う。もちろん、プリンセスにまったく憧れを抱かなかった女性も一定数いるだろう。だが、恋愛がハッピーエンドを迎える時の形として、プリンセスが模範例のように扱われていることを否定する人はいないだろう。例えば、結婚式。女性は真っ白に輝くウエディングドレスに身をつつむ。まるで、御伽噺に出てくるプリンセスのように。そもそも、「恋愛の成功=結婚」や「結婚=幸せ」という価値観自体が、プリンセスの物語と重ね合わせているからこそ生まれているのではないかという気さえする。

幼い頃の私を思い返しても、プリンセスへの憧れを過分に持っていた。DVDを流しながら、自分とお姫様を重ね合わせていた。毎日、可愛いドレスが着られる。美味しいものが食べられる。広いお城で暮らせる。彼女になれば、何不自由ない暮らしが待っているように思えた。最も、憧れの理由は「いつか私にも王子様が現れるんだ!」というロマンチックなものではなく、「プリンセスになれれば、金銭的に不自由しないでいい」という現実味溢れるものだったが。

 

さて、私のような稀有な例もあるが、昨今ではプリンセスを「女性の憧れ」という文脈で述べることに否定的な見方もある。その一つが、ジェンダー論だ。

例えば、プリンセスの観点からジェンダー論を述べた有名な新書の一つである『お姫様とジェンダー』(若桑みどり、2003年、ちくま新書)では、下記の記述がある。

誓っていうが、プリンセスになって王子と結婚しようと思った女の子の人生は、あらかじめ幻滅にむけて用意されているのだ。そんなことがあっていいものだろうか?幻滅するにきまっている夢を大人が少女に与えつづけているとしたら、それは大きな文化的詐欺ではないだろうか?(『お姫様とジェンダー』42頁(若桑みどり、2003年、ちくま新書))

若桑先生は、プリンセスを詐欺とまで断定されている。

先生の主張は、一部では正しい。私も、いつだったかは忘れたが、自分がお城に住める日は永遠にやって来ないことに気がついた。プリンセスが存在しないこと。それは、町中を見渡してみても明らかだ。誰一人として、ふわりとした裾のドレスを着ていない。プリンセスは、物語の中だけで存在する架空の世界だと思い知るのだ。けれども、それを「文化的詐欺」呼ばわりすることには、納得できない。むしろ、なぜ「プリンセスという夢を与えることのみが詐欺呼ばわりされるのか」と憤りを覚える。

先生は、先述の文章の後に、このようなことも述べている。

大人は、もっと実現のできる、せめて自分が努力すれば実現できる夢を女の子に与えなければいけないのではないのだろうか?男の子は、乗り物やロボットや宇宙船や異星人の玩具を買ってもらうが、これはみな、彼が将来大人になれば乗りこなしたり、造ったり、利用したり、研究したりできるものである。その上、これらのものは機械文明や技術にかかわるもの、つまり「つかうもの」であって、その子の生き方や心や体にかかわることではない。(『お姫様とジェンダー』43頁(若桑みどり、2003年、ちくま新書))

この本が出版された時から17年も経っているので、多少考えの古い感じは否めない。恐らく、現在のジェンダー論では「女らしさ」の観点のみならず「男らしさ」の観点も研究されており、例えば性同一性障害の男性が幼少期に「乗り物やロボットや宇宙船や異星人の玩具を買ってもらう」経験に悩んだという話も目にしたことがある(出典が不明瞭で申し訳ございません。)。ただ、この点を差し引いても、プリンセスのみを取り上げて、女の子にも他の夢を与えるべきだという論調は偏っているのではないだろうか。性別に関わらず、個人の興味関心にそった夢を与えなければならない、とすべきだろう。

このようなことを考えると、物語であるプリンセスをジェンダー論やフェミニズムに結びつけることが誤りではないかという疑問が生まれた。そこで、すっかり前置きが長くなったが、プリンセスとジェンダー論について、個人的に考えたことをまとめてみたい。

 

私はジェンダー論というものが好きではない。特に、ジェンダー論と似た分野であるフェミニズムは好きではない。男女共同参画社会を実現するには女性の地位向上が不可欠であり、私が今男性と同一の職業につけているのは研究者や活動家が世論に訴えたからだとは承知している。私はただ彼ら・彼女らの恩恵を受けているだけだ。だから、たくさんのジェンダー論者及びフェミニストには、感謝をしている。だが、真剣に研究されている方は悲しむかもしれないが、私自身はどうも性差の問題に対して不快感を覚えてしまう。

そのため、プリンセスとジェンダー論について考える前に、ジェンダー論を大事だと思う自分とジェンダー論が嫌いな自分のせめぎ合いについて述べておきたい。

 

私には兄がいる。彼は私より数倍優秀で、努力家だった。それに引き換え、私はあまり勉強ができなかった。と言うより平凡で、特に取り柄のない子だったのだ。兄のように、勉強で一番になれるわけではない。習っていたピアノも、兄の方が上手だった。習字は私の方が上手だったが、県で一番になれるほどの腕前はなかった。ジェンダー論の見地から言えば、自己評価が低いのは女性の育てられ方が性的な要素に依存していることに起因しているため、ということになるのかもしれない。

特に取り柄のなかった私に対して、母親はよく慰めを口にしていた。

「そりゃあ勉強ができた方がいいけど、女の子だから。男の子みたいにバリバリ働くわけじゃないし、あなたがバリバリ仕事するとは思えないもの」

私は、母親の言葉に強い違和感を覚えた。

そうだろうか。成績が悪いのは自明だが、それがバリバリ働かないという事実にまで結びついて良いものだろうか。小学生なんて、四教科しか学んでいない。勉強が苦手でも、仕事は得意という可能性もあるかもしれないではないか。

そして、兄に対しては、

「お兄ちゃんは男の子なんだから、大きくなったら、妹を助けてあげなさいね。この子は女の子だから、そんなに稼げないし。いつも送金しろとは言わないけど、誕生日に何か買ってあげるとか。ほぼ高確率で、お兄ちゃんの方が給料高いんだから」

と「か弱い女の子である」私を守る役割について諭していた。

だが、それから20年以上が経過した現在。蓋を開けてみると、兄よりも私の方が高年収だった。彼が大学院生兼非常勤講師という立場であることも関係しているので、比較は困難だが、少なくとも母の述べていた「兄が妹を助ける」という図式は成立しなくなった。兄と二人でご飯に行っても、「いや〜、僕さあ、研究室でも他人に奢ったことないんだわ〜、最年少やから〜」なんておどけられ、私が「お兄様は3000円で良いわ。残りは私がカードで払うから」と兄のご飯代も奢っている有様である。男女関係なく、年上としての威厳はないのか。

他方、母親は私に対して教育熱心だった。あまり書くと母娘問題もとい毒親問題という別領域のテーマになってしまうため、ここでは簡略化する。

母親は、娘がバリバリ仕事をすることを想定していなかったようだが、それは裏を返せばすぐに家庭に入ることを意味する。しかし、彼女はプライドが高いため、娘が高卒で結婚して家庭に入るという未来像は、他人と学歴を比較した時に許せなかったのだろう。そのため、母親はこのようなことも口にしていた。

「お医者さんになったら将来、不自由ないわよ。細かいことするの好きだし、向いてるんじゃないの」

「文系なら、東大以外は認めないから。それが無理なら地元の大学にして。だけど、地元の大学出たって、良いところ就職できるか分からないわよ」

私は自分が医師に向いているとは、まったく思わない。ネイルのような細かい作業が好きで、職場の人から「え!それ自分でやってるの!」と良く声をかけられていたくらいには、程々に綺麗に仕上げられている。

しかし、私はかなりおっちょこちょいだ。人間の命を預かるなんて気が重い。加えて、小さい頃から読書家だった( と以前にも書いた気がする)が、理数系の本を読んだ記憶はほぼない。小説を除くと、歴史や政治の本しか選んでいなかったはずだ。私の趣向を一番傍で観察している母親が医師を勧めていたのは、まず彼女のプライド、次に女の子でも家庭と両立できそうという理由だったのではないだろうか(医者にとって家庭との両立は困難だという御意見をいただきそうだが、医療関係者ではない母親は、大学病院で行われているような大手術を担当する医師ではなく、比較的時間の融通がきく町医者を想定していたはずだ。)。

そして、二つ目の発言についても、「我が子に東大に行ってほしい」という親の願望を率直に述べたように聞こえるが、私が東大に行けるような学力を持っていないことは、模試の成績からも明らかだったので、実質的には無謀な選択肢を提示しているにすぎない。数学と英語で偏差値30台も取ったこともあるほどのおバカさんが、東大に行けるはずないだろう。結局、私は東大には程遠いレベルの国立大学に失敗して関西の私大に進学したが、この時も「まあ、すっごい優秀な大学ではないけど、世間的に見れば普通よりは上かもしれないから、就職は困らないだろうし。でも、そもそも、あなたがバリバリ働くと思えないから、これで十分なのかも」と自分を納得させていた。

 

私は、女の子らしさを求められて育った。

進路にしても、服装にしても。実際、私は幼い頃、母に着せられていたフワフワした襟付きのワンピースが自分の趣味とは違っており、外を出歩くのが憂鬱だった。こんな、ドレスを模したワンピースなんて、自分に合ってない。その場で脱ぎ捨ててしまいたかった。周囲が求める「いかにも女の子」という典型に当てはめられることが、苦痛だったのだ。

この育てられ方に鑑みると、私はフェミニストになってもおかしくなかったはずだ。

けれども、私は、フェミニストにならずに、男性比率の高い業界で働くことを選んだ。

それは、自分の苦痛の理由に、性差を紐付けていなかったからだ。本当の自分の趣味や、本当の自分の能力。これら「本当の自分」を見せられないことへのいらだちがあった。私が自分の考えを推し出せなかったのは、自分に自信がなかったという、自分自身の問題である。こう言うと、「性的役割の押しつけが背景にあるから、本当の自分を出せなかったのではないか。ともすれば、それは、『女の子らしさ』を求められることへのいらだちと同意ではないか」と反論されそうだが、それは違う。あくまで、私が本当の自分を出せなかったのは、他人からの視線を極度に気にしていたからだ。

そしてこれは、現在の自分自身が、ジェンダー論を苦手とする理由にも通じている。つまり、私達は、「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」というフィルターを問題視する以前に、他人を意識しないという、ある意味、鈍感力のようなものを身につける方が先決ではないかと考えるのだ。

一方で、私はジェンダー論を無意味なものとは思わない。先述したように、女性解放運動があったから、私は現在、男女共同参画社会という名の下で、男女同額給与の恩恵を受けている。選挙権もあるし、私は今まで取り立てて、女性ならではの差別を感じたこともない。これらは全て、男女同権を求めて闘った先人の功績のお陰である。

必要だとは認識するが、自分とは相容れない。それが、私にとって、ジェンダー論という学問なのだ。

 

ここまで私の立場を簡単に記したので、次回はジェンダー論者ではない立場から、本題であるプリンセスとジェンダーについて語ってみたい。