Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

宇宙人たち

ギリシア神話にはウラノスがいて、インド神話ブラフマーがいて、日本神話では天照大御神がいる。人間は、古今東西で形は違えど、天地創造主が混沌から世界を創ったという伝承に、疑いを抱かない。もはや遺伝子レベルで、天地創造神話は、脳内に組み込まれているのかもしれない。

これからする話も、数多の神話と同じである。紀元前から口頭伝承され、書物にまとめられ、文化として根付いてきたものだ。

 

そう、私は信じていた。

 


大学生の頃、アルバイトが終わると、友人と連れ立って学食へ向かっていた。大学の近くにはオシャレなカフェもなかったし、運動部御用達のような定食屋のカツ丼は量が多すぎる。価格と距離を考えると、学食は長話をするのに丁度良い場所であった。

アルバイトの人間関係、授業の愚痴、恋愛相談まで。話の出口は見えない。話題が尽きることもない。それなのに敢えて、脳内神話を他人に語り出すことになったのは、ヤツが目の前にいたからである。友人のビーフシチューの中に、ひょっこりと。

ヤツらについて語ること。

それは自分にとって初めての経験だったが、特に違和感を覚えることもなかった。自明の事実は、会話の種にはなり得ないのだ。「ほら、世界は混沌から始まったんだよ」などと、会話を切り出す人がいないのと同じように。ただ、何かのきっかけで、当たり前のことを語りたくなる瞬間だってある。それが、あの時だっただけだ。

「ああ、宇宙人がいるじゃん」

「待って?どういうこと?意味が分からない」

意味が分からないのは、こちらの方だ。宇宙人のことを知らないのか。常識だろう。

目をぱちぱちさせている友人に、私は事も無げに告げた。

「そいつら、ほんと嫌い。宇宙人みたいじゃん」

 

それでは、私の中の神話を少しだけ、聞いてもらいたい。

 

コンビニで購入できるサラダに、ヤツは眠っている。野菜売り場でも、必ず隅っこに寝転んでいる。だらしない顔をして、ヨダレを垂らしながら。そして、カゴに放り込まれると、跳ね起きつつも、ほくそ笑んでいるのだ。

家庭の夕食にも、ヤツらが登場する頻度は高い。憎いことに栄養価も高いため、ヤツの恩恵を受けている主婦は多いだろう。

私は、そんな善良な主婦に警鐘を鳴らしたい。

騙されてはならない。ヤツら――つまり、ブロッコリーとカリフラワーは、宇宙人である。

それも、ただの宇宙人ではない。

敵同士であるブロッコリーとカリフラワーは、遠い宇宙からやって来たのだ。


三頭身のブロッコリーは(恐らく、宇宙人名が存在するのだろうが、ここでは便宜上ブロッコリーと呼ぶ。)いつも緑色のもじゃもじゃした頭を左右に揺らしている。短い足では重い頭を支えられず、よろめいてしまうからだ。糸のような腕で平衡感覚を得ようとするが、これも頭の重さには勝てず、結局くにゃくにゃとした動きから逃れることはできない。

それに比べると、カリフラワーは幾分かシャキッとしている。ブロッコリーに比べると背筋は伸びているし、細身で背が高い。とは言っても、ブロッコリーと比較しての話なので、一般的に見て容姿が整っているということはできないだろう。

色味以外の違いが無さげなブロッコリーとカリフラワーだが、本人達は一緒くたにされることを極度に嫌う。それは、アメリカ人からChinese?と問われることと似ているかもしれない。相手にとって、見分けがつかないことは重々承知しているが、否定する語尾にもやもや感が残るのだ。ヤツらの場合、色味が異なるので間違えられることはない。しかし、「似ている」であるとか「兄弟みたい」であるとか、とにかく同一に扱われると心が冷え込むのだ。

あいつと自分は似ていない。全く違う。

塵のように不満は溜まっていく。そして、溜まりすぎた感情には蓋ができない。

だから、ヤツらは敵同士となった。何百年間も戦闘は続き、祖国は荒廃した。そして、安楽の地を求めて、この世界へやって来たのだ。

 


ざっくばらんな私の語りに、友人は吹き出した。ありえない、おかしい、と連呼して。

「待って。それはない。ヨシナリの頭の中、電波やん」

「どう見ても、宇宙人でしょ。生きてるでしょ、そいつら」

「生きてない。ただの野菜やし、美味しいだけ。そこまでブロッコリーを嫌う人を初めて見た」

笑い続ける友人には答えず、私は皿の中で寝ているブロッコリーを渋い顔で見つめる。ビーフシチューに半分だけ身体を沈めて、天井を見上げている。そのまま、むっくりと起き上がってくれればいいのに。そうすれば、誰もが信じるだろう。

ブロッコリーは、野菜などではないと。

「今までどうやってブロッコリー食べてきたの?」

友人の疑問は最もである。

主菜にも副菜にも登場し、食卓の正義漢のようなブロッコリーから逃れて生きることほど、難しいことはない。

「出されたら食べるよ。仕方ないから。食べ物を残すの嫌いやねん」

「それ、そこまで嫌いでもないじゃん」

これは私の意地の問題である。私の嫌悪感は人種差別のようであり、理不尽極まりない。本当にヤツらが立ち上がったなら、フォークの先で腕を刺されてもおかしくないと思う。

「だけど、自分からは絶対に食べない」

頑なな私の態度を面白がっている友人は、見せつけるように、口の中へそれを放り込んだ。

よく噛めるな、と感心してしまう。私なら丸飲みだ。食感も無理なのだ。フサフサした頭が舌にあたる感覚も、ちぎれた胴体が奥歯を刺激するのも。

ブロッコリーにそんなに思いを入れられるなんて、一周回って好きなんじゃないの」

それはない、と私は断言したかった。

だが、彼女の言に一理ある気がしてしまった。

自分にとっては常識だと捉えていたほど、ブロッコリー宇宙人神話を信じていた。ヤツらを擬人化し、食べられない理由を作っていたのか。食べられないから、ヤツらを擬人化したのか。どちらが出発点であったのか、定かではない。しかし、どちらの場合にしても、私はヤツらを食すことに、何となく居心地の悪さを感じてしまうのだ。まるで自分が、殺人鬼にでもなったかのように。

「……ブロッコリー宇宙人説、常識かと思ってて、よく皆は気にせず食べられるなって不思議だったんだよね」

「ただの野菜だし、宇宙人には見えない」

彼女の皿の中に、もうヤツはいない。メインディッシュではないブロッコリーは、あっという間に胃の中に収まる。

ふと、口の端を持ち上げているヤツの姿が、脳裏に浮かんだ。

ああ、そうか。なぜ、私の神話で、ブロッコリーが常にニヤニヤしているのか、ようやく分かった。

ヤツらは、食べられないことを望んでいない。食べられることが喜びなのだ。食べられる日を心待ちにし、ようやく叶うために、笑いを抑えきれないのである。たぶん。

宇宙人達がそれを望むのなら、気は進まないがいつか味わってみよう。いつになるかは分からないが。

「なんか、人によって食べ物の好き嫌いの理由って違うよね」

私はぼんやりと話題を変更し、脳内神話を閉じた。