Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

東京コンプリートゲーム。だから世界を革命したい。(前編)

 

憧れの街、東京。青空の一部となった高層ビルの下で、スタバのコーヒーとスマホを片手に、肩で風を切りながら闊歩する人たちが生きる町。

幼い頃から、この街に溶け込みたいと願っていた私がようやく居を構えたのは、社会人になってからだった。ここが自分の生きる場所。ゲームスタート。アイテムを集めて、即ミッションコンプリート……とは行かないんですよね、残念ながら。

 

日本のドラマはほぼ観ないのに、『東京女子図鑑』だけは繰り返し視聴している。地方出身の主人公・斎藤綾が大学卒業後、就職と同時に上京し、サバイバルな東京をコンプリートしようとする話だ。

ハイスペックな男性との交際を望み、キャリアアップを遂げて、住む場所や価値観を変えていく彼女はとてもたくましい。

主人公の行動規範は、人から羨ましがられることだ。キャリアも結婚も、生活水準も、他人から見てキラキラした生活を送りたいと願い、そのためには手段をいとわない。呉服屋の愛人になっても、愛されていないことには目を向けずに「洗練されたワンランク上の生活を教わった」と言わんばかりに喜ぶ綾は、客観的に見ると痛々しい。それでも彼女の心が満たされ続けるのならば否定できないが、他人との比較による承認欲求はどこかで綻びが生じる。三軒茶屋の生活よりも港区の生活を手にしたいと願い、高収入を得れば独身でいることの虚しさを突きつけられる。

 

地方出身の私は、どうしても主人公と自分を重ねてしまう。

東京に行けば人生を変えられると無邪気に信じていたが、私の東京生活は想像ほど輝いていない。

就職からスタートした駒は前に進まず、ビジョンが見えない。社会人生活が軌道にのったんだから次は結婚だよねという安易な思考で、マッチングアプリで出会った港区出身ハイスぺ男性と付き合った。キャリアも結婚もコンプリートに思えたが、価値観が違いすぎることに耐えられず半年で別れた。私はドラマの主人公のように「ワンランク上の生活ゲット!」と喜べず、自分と彼の育ち方を比較して、日を追うごとに気持ちが塞がってしまったのだ。結果、自分に残ったものは、誰にも愛されないのだという絶望のみで、もう時間はかなり経つのに希死念慮に憑りつかれたままだ。色々書きたいことがあるが、本筋ではないのでこの話はまたいつか。

 

斎藤綾や私のような人間は、満たされない思いに溺れることが多いのだろう。いわゆる「青い鳥症候群」になり、根拠もなく欲望を追いかけられるように感じてしまう。

この理由は、おそらく自分自身が根拠もなく東京に憧れ、明確な目標もないのに努力を続けてこられたからではないだろうか。

若さゆえの夢という抽象的な目的でも叶えられてしまうほど、意志が固くて真面目な性格なのだとは思う。けれども、ふと他人に目をやった時、別の面から見ると人生ステージに差がついていることに気がつくのだ。そして、真面目だからこそ、別の面から見た人生も他人に追いつきたくて努力をする。

しかし、はっきりとした軸は保てていないので、報われることはない。幸せになれない。そしてまた、他人と比較する……このような悪循環に陥るのだ。

例えば、私と友人Aは、大学時代から東京に憧れを持っていた。そして、私は就職により上京し、友人Aは結婚により上京した。字面だけ見れば、私と彼女は東京で暮らすという目標を叶えている。

だが、ここで私は自分が結婚どころか恋人すらいないという事実に気がつき、自分も彼女のように結婚しなければいけないという焦りに繋がる。いくら彼女から「いいじゃん、その代わり安定したキャリアがあるんだから」と言われても、結婚という視点に凝り固まった私には響かない。だって、世の中には私程度のキャリアの人はいっぱいいるし、私と同じ仕事に就いている上に家庭も築いている人だって大勢いる。

どうして他の人のように結婚できないのだろう?どうして誰からも好かれないのだろう?

これらの疑問は、最後に「どうして他の人ほど幸せになれないのだろう?」へと集約するのだ。

 

「東京女子図鑑」の中で、綾は上京して初めての彼氏ができるが、「優しい彼氏といられて不満はないけど、せっかく地方から出てきたのに、こんなどこでも手に入る小さな幸せでいいの?」という疑問を持ち、彼氏に別れを告げてハイスぺ男性を探すようになる。

多くの視聴者は、これが間違いだと指摘するだろう。最初の優しい男性が綾の身の丈にあっていたのに、手放すなんてもったいないと非難する。

自分に重ね合わせても、大学時代の彼氏と付き合い続けていれば、結婚していた現在を生きていた可能性が高い。だが、その幸せだったかもしれない未来を捨てたのは自分自身だ。もっとも、既婚者という社会的ステータスに安心感が得られたとしても、彼との関係におけるその他の悩みに押し潰されていただろうから、幸せと言えていたわけではないだろう。

問題は、冷静に考えても幸せでない自分を想像できるのに、幸せだったかもしれないと心のどこかで考えてしまっていることだ。

この原因にも、「どうして他の人ほど幸せになれないのだろう?」という疑問がある。

私が大学時代の彼氏と別れたのは、価値観や将来のビジョンが異なっていたからで、当時は「もっと自分に合う人がいるはずだ」と信じていた。

しかし、アラサーにもなると、それが幻想であることに気がつく。

愛される人と愛されない人には明確な違いがあり、私は後者だ。考えれば、私は昔から存在感が薄く、遠足で2人組グループを作ると余りの3人目になることが多かった。だが、それでも周囲の人に迷惑をかけたり、不快な空気にならないよう明るく振る舞い、一生懸命に努力してきたつもりなのだ。一方で、誰かをいじめていたり、貞操に欠けていたり、他人の容姿を批判する人は、あっさりと誰かに愛され、数多くの友人から人生を祝福されている。彼ら・彼女らは、生まれながらにして愛される人。だから、彼ら・彼女らは、私のような悩みを持たないでも生きていける。

自分は自分、他人は他人。そう割り切れれば心は軽くなるのだろうが、少なくとも愛される・愛されないという二元論において自分が後者にあたると分かれば、前者よりも劣っているように感じてしまう。

素の自分でいても愛されない。弱味を克服しようとしても愛されない。完全にお手上げだ。

これが、努力が報われないと感じる要因である。

 

私のような悩みに対する解決方法は、いくつか存在する。

それは、環境や判断軸を変えることだ。他人の言動や価値観を変えられるはずはないのだから、自分自身の内面を変えていくしかない。まず、「愛される・愛されない」や「幸せ・不幸せ」という両極端の発想をやめるべきだ。

自分の思考方法を改めるのは、とても難しい。

だから私は、世界を革命する力がほしいのだ。

――なんだよ、「世界を革命する力」って。某90年代アニメのパクリですか。

――はい、そのとおり。

(後編へ続く。)

【2023年上期】読書記録と雑感

デジタル化の恩恵だ。昨年冬にKindleを購入して以来、自宅にいながら好き放題の本を手にできる環境を得た。いわば図書館で寝泊まりしているようなものだ。電子書籍の定額読み放題サービスであるKindle Unlimitedにも加入したので、文庫本1冊と同程度の価格で指定タイトルを読み漁れるようにもなった。本棚の空きスペースに悩みながら、月初めに3冊程度の文庫本を購入していた半年前と比較すると、これは画期的な進歩である。Book wormからBook Butterflyに羽化したと言ってもいい。蜜を求めて花から花へと飛び移る蝶々のごとく、新書にミステリー、ファンタジーと、自分の気持ちが向くままに活字を追っていける。

幸せだった。飽きるはずもない。世界には見たことのない花が咲き乱れているのだから。

 

Kindle Unlimitedのお陰で出会えた作家といって真っ先に思い浮かぶのは、恒川光太郎だ。幻想的という言葉が似合う作家は、恒川光太郎氏以上にいないだろう。

何も考えずに選んだ『南の子供が夜いくところ』(角川ホラー文庫は主人公のタカシがたどり着いた南の島をめぐる連作短編だが、幸運と死と不運と甘さが引っ掻き回されて、虹色が灰色になっている世界に虜になった。その後、彼の作品を手あたり次第に読み、読後は仕事終わりにビールを一気飲みしたときのような清々しさに浸った。

数作品のうち最も心に残っているのは、氏のデビュー作でもある『夜市』(角川ホラー文庫だ。妖怪が開く市場に迷い込んだ少年の話は、小学生の頃に夏祭りへ行った高揚感とともに、友達同士で肝試しをした鼓動の高鳴りを思い出す。同作品に同時収録されている「風の小道」も同様に、妖怪や死者の暮らす世界へ足を踏み入れてしまった少年が旅する物語なのだが、映画にもなりそうな独特な世界観に圧倒させられた。本作はホラー小説大賞受賞作だが、ホラーというよりも神話の日本が現代社会にもひっそりと佇んでいるかのようなファンタジーの要素が強い。洋書に出てくるような魔法や超能力をはじめとする、派手な要素はない。だが、室町時代の絵画に入り込んだような異世界だって、ファンタジーと呼んで差し支えないはずだ。西洋を舞台にした作品が好きな自分にとって、中世や近世の日本を舞台にした作品がお気に入りリストに仲間入りしたのは嬉しい誤算だった。

また、かつて図書館で借りていた本を再読できたことも喜びのうちの一つだった。ドラマ化もされた『ビブリア古書堂の事件手帳』(三上延メディアワークス文庫だったが、大学入学前に6巻を読んだのが最後になっており、最終巻や続編が登場したことすら知らずにいた。それゆえKindle Unlimitedでタイトルを見つけた時には、ティーンエイジャーに戻った気分になった。古書にまつわるミステリーは、本好きならば年代を問わずに魅かれてしまうものである。

さらに、久々に『暗幕のゲルニカ』(原田マハ、新潮社)などの原田マハ作品を読むことができたのも嬉しかった。アートを題材にした本ならば『恋する西洋美術史』(池上英洋、光文社新書のような新書ならば一定数あるが、本格的なアートを題材にした小説は少ない。だから原田マハ作品は貴重だ。表紙を見ただけでわくわくする。残暑になれば、美術展にも行きたいものだ。

先ほど、恒川光太郎作品がお気に入りになったと書いたが、そう言えば高校時代に気に入った作品の一つに『私たちが星座を盗んだ理由』(北山猛邦講談社文庫)があった。ミステリー短編集である本作品も幻想的な世界観を持っており、ここではないどこかを彷彿とさせる恒川作品に通ずるものがある。8年ぶりにKindle Unlimitedで再読したが、今でも変わらず素敵な作品だと感じた。そして、見事にオチは忘れていた。記憶力が衰えているお陰で、何度も楽しめてラッキーだ。

10年前から私の好みは変化しておらず、恒川作品を好きになるのは必然だったのかもしれない。

 

Book Butterflyになり、世界を飛び回っていた私。しかし最近、この状況は本当に幸せなのかと疑うようになった。

Kindle Unlimitedでも『海と毒薬』(遠藤周作新潮文庫『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、岩波現代文庫のような後世に語り継がれるべき名作に親しむことができる。だが、月替わりで対象タイトルが変わるとはいえ、Kindle Unlimitedのみからお気に入りの作品を探すのには限界がある。それでも「定額だからたくさん読まなければ」と考えてしまい、興味の薄いエンタメ小説であっても対象作品であることを理由に読んでみたりした。

はたして、これが正しい読書なのだろうか。自分の心が満たされているといえるのだろうか。

読み放題という環境のせいで、自分がその時々に心の底から欲している作品から離れてしまうようになったのだ。毎月3冊購入と決めていた時の方が、1冊の作品と世界を大事にできていたようにも思える。これは乱読の弊害とも言えるだろう。

サブスクリプションは手軽だ。だからこそ、自分の直観をもとに別世界を掴み取っていく大切さを知ることにもなった。自分の心を本当に震わせる作品は何か。逃げ出したい世界はどこにあるのか。もう一人の私との対話を忘れては、定額サービスを使いこなせない。

Kindleでは度々、Amazonポイント還元まとめ買いセールを開催している。この機会を利用して、自分が本当に好きな作品も購入するようになった。お陰で、カズオ・イシグロ作品を読破することができた。気が狂いそうになる充たされざる者』(ハヤカワepi文庫)を何度でも、どこでも楽しめるのは電子書籍で購入したお陰だ。もちろん、一番お気に入りの『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)も繰り返し楽しんでいる。読み返しすぎて、もはや数えていない。これからも少しずつ、自分の電子本棚を充実させていきたいものである。

 

最期に、下半期の私の読書目標を2つほど。

一つ目に、フィリップ・K・ディック村上春樹の作品をこつこつ購入すること。

特に、前者は『人間以前』(フィリップ・K・ディック、ハヤカワ文庫SF)のような短編集をたくさん読みたい。『時は乱れて』(フィリップ・K・ディック、ハヤカワ文庫SF)のような長編も良かったけれど。人間の心の底を抉っていくディック作品は、辛い時期を乗り越える支えとなってくれるだろう。

村上春樹作品は、以前から読んでいるが、実は長編作品を読破できていない。設定や男性主人公の独白には賛否両論でもあるが、私は彼の表現力と比喩を真似できないので、読む時はいつも新しい視点を得ることができる。なるほど、これが日本文学かと。気持ち悪い男性だと顔を顰めながらも、村上春樹作品を読むのをやめられないのは、この新鮮な表現を思う存分に吸い込みたいからだ。

二つ目に、洋書を読むこと。

最近、英語力がだだ下がりしている。これでは大学院の授業についていけないという危機感はあるのに、一向にやる気が湧いてこない。手始めにハリーポッターシリーズを読み始めてみた。英語学習に用いようと考えている人は多くいるだろうし、私もその一人なわけだが、実は以前に挫折している。時間をかけても一向にページが進まず、イラついてしまったのが原因だった。日本語よりも読む速度が落ちるのがもどかしいが、諦めずに読み進めていきたい。

 

カズオ・イシグロ読破した

昨年に「私を離さないで」を読んで以来、すっかりカズオ・イシグロ作品の魅力にとりつかれた私。邦訳版として出版されている全9冊を読了したので、レビューしたいと思います。

ネタバレを含むので、ご了承ください。

 

①「遠い山なみの光」(1982年)

記憶には靄がかかる。カズオ・イシグロの処女作。

カズオ・イシグロ作品の特徴といえば、「信頼できない語り手」とも評される、語り手の主人公による記憶の歪み。独白のため、記憶を訂正する者もおらず、それゆえに読み手は主人公の語りに翻弄されつづけるのです。

この記憶の歪みこそが、作品の面白さなのですが、実際に読んでみるまで、「信頼できない語り手」を理解するのは難しいかと思います。

本作は、日本からイギリスに移住した女性(悦子)が、戦争直後に住んでいた長崎での日々を回顧する物語です。悦子には、イギリス人の夫との間にニキという娘がいますが、読者は冒頭で、景子(前夫との間に生まれた日本人の娘)がイギリスで自殺したことを知ります。

回顧の中心は、悦子と友人の佐知子、佐知子の娘である万里子の3人の交流。佐知子はアメリカ兵とともにアメリカへ移住することを願う自由奔放な女性。アメリカへ行くのだとはしゃぐ佐和子と裏腹、万里子は日本にいたいと泣くのです。万里子そっちのけで外出する佐知子を見て、おっとりした雰囲気に思える悦子は代わりに面倒を見たりしています。この説明だと、戦中と戦後の新しい女性像の対比を描いているように感じるかもしれませんが、そんな単純な話では終わらない。

そう言えば、悦子も娘とともに、イギリスへ行ったんだよな…。しかも、娘は自殺したんだよな…。

悦子は「佐知子・万里子」という友人を語りながら、実は自分自身の出来事を語っているのでは?という疑問が浮かぶわけです。

 

②「浮世の画家」(1986年)

新しい世界と捨てきれない自己肯定感。

あらかた他作品を読んだ後だったので、「遠い山なみの光」と「日の名残り」と「わたしたちが孤児だった頃」を混ぜたような物語だと感じましたが、発表年を照らすとむしろ他作品の出発点となる物語のようにも思えました。古きを抱えたまま移り変わる世界を描くという題材には、「わたしを離さないで」にも通じますし、主人公の語りがあちらこちらに飛んでいくのは「充たされざる者」と同じです。

今作の舞台は、1950年代の日本。主人公である「語り手」の小野は、戦争に加担したと推察する隠居した版画家です。地の文章ともなる画家の独白には「おそらく、そう言ったのだと考える。いや、たぶん言った」というような、自身の記憶にある言動を納得させる説明が多く用いられています。「遠い山なみの光」における義父と同様、小野は時代の移り変わりについていけず、価値観を変革しなければならない義務感と自身の精神の支柱であった価値観は誤りでないという正当性の狭間で、自己防衛に陥っているようにも見受けられます。小野が端々で「女どもは男の気持ちが分からない」と発言しているところからも、彼には新たな価値観を本心から取り入れる気がないことが分かります。

ただ、これは人間にとって、当たり前な反応とも言えるでしょう。当たり前が裏返り、新たな常識と言われたところで、誰が疑問を持たずにすぐさま納得できるでしょう。

 

③「日の名残り」(1989年)

イギリスのドラマ「ダウントン・アビー」のファンが好きそうだというのが第一印象でした。20世紀初頭のイギリス貴族社会を舞台にした「ダウントン・アビー」が大好きな私は、当然本作もお気に入りです。時代背景さえくみ取れれば、他作品よりも読みやすいようにも思えます。

執事であるスティーブンスは、戦前と戦時中にはイギリス貴族の屋敷に勤めていました。執事が旧友に会いに行く道中に回想している出来事が、本作の中心です。カズオ・イシグロ作品なので、主人公は自分の言動を正当化するのですが、彼の心理状況はナチス戦争犯罪加担者のインタビューと一致するものでもあるので、あながち信頼できないわけではないのかもしれないと思いました。

一番お気に入りのシーンは、ミス・ケントンから結婚の申込みを受けたことを聞いた時のスティーブンスの反応です。恋は上手くいかないことが多いという教訓は、時代が移ろっても変わらないようです。

 

④「充たされざる者」(1995年)

気が狂いそうになる大長編小説。

ある小さなヨーロッパの街へ公演にやって来たらしい著名な音楽家であるライダー。街の住民は「ライダー様」に途切れることなく、やれスピーチやら、演奏を聞いてくれやら、探し物をしてくれやらお願いをしていく……という流れが最初から最後まで続きます。お願いの最中にお願いが発生すると、前のお願いを投げ出して新たなお願いを解決しようとするので、まったくお願いが終わらない。断ろうとしないライダーには、若干イラつきます。

さらに読んでいて気が狂いそうになる要素は、エッシャーの騙し絵のように、物語の設定がくるくると変化することです。

説明が非常に難しいのですが、ライダーがAから頼まれごとをされる→Aの話を聞きながらライダーが空想する→ライダーの空想が現実にすり重なる→ライダーがBから話しかけられて、いつの間にか空想が現実化している、というようなイメージです。最初から最後まで、空間と次元を無視して話が展開されるので、自分が読んでいる内容は夢なのか現実なのかが分からなくなっていくのです。

これが800頁超ですからね。気が狂います。

 

⑤「わたしたちが孤児だったころ」(2000年)

エリート階級である元孤児である「探偵」の主人公が、幼き日に上海租界で行方不明になった両親を探していく物語。

戦時中の上海と探偵という組み合わせからは、柳広司ジョーカー・ゲーム」をイメージしますが、本作はエンタメ性よりも芸術性や文学性が上回っております。そして、楽しい物語ではなく、悲しい物語でもあります。カズオ・イシグロが描く戦争と戦後とは、他作品にも見られるように、一般人が心の奥深くで罪意識を抱えていても平静をよそおい、変化する日常を過ごしていくという意味なのかもしれません。

 

⑥「わたしを離さないで」(2005年)

語り継ぐべき名作。

私が一番好きな作品で、何度読んだか覚えていません。原書も読みました。人生のバイブル。

おそらく、最も有名なカズオ・イシグロ作品でしょう。

なぜここまで好きなのかと考えてみたところ、主人公のキャシーが自分と似ており、共感する点が多いためではないかと気がつきました。

特に第2部終了間際でキャシーがコテージを去るシーンが好きなので、ちょっとだけ紹介。

キャシーは友人のルースと少しギクシャク中。ルースはトミーと付き合っているのですが、なんとなくキャシーとトミーが両想いなんだろうなという雰囲気で、寄宿学校時代にも他の友人から「ルースとトミーが別れたら、キャシーとトミーがカップルかもね」みたいなことを言われる関係性。まあ、噂を耳にした現・彼女たるルースが腹立つ気持ちも分からないではない。そこで、ルースが取った手段は「トミーと私がカップル解消する可能性はゼロじゃないけど、トミーはあなたを女としては見てないよ」とキャシー本人に伝えること。おそらくトミーに好意を抱いているのであろうキャシーは、それを聞いて頭の中が真っ白。そして、ルース達と別れて、人生を次のステップに進めることを決めます。

いや、いますよね、ルースみたいな子。ちょっと性格がきつくて、友人に自分の彼氏を譲りたくない。いっそ、キャシーが「あんたより、私の方がトミーにふさわしいから」と宣戦布告でもすれば違うのかもしれませんが、友人の彼氏を横取りできない真面目なキャシー。よくある話です。

本作は、主人公達の「提供者」という悲しい背景に目が行きがちですが、何度も読むと人間模様の方に注目すべきだと気がつきます。掛合いを追うだけでも十分に面白いのです。

 

⑦「夜想曲集ー音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」(2009年)

夜更けに、レコードでクラシックを聴いたときのような感じ。

題名からお洒落さが伝わるかと思いますが、イメージと違わずに、人間模様を音楽にのせて書かれた短編集です。村上春樹の作品にもジャズやクラシックが頻繁に登場するからか、どこか通じる雰囲気があります。もちろん、本作の原書は英語ですが、日本語表現とクラシックは親和性が高いのかもしれません。5編の物語が集められていますが、一番気に入ったのは時代を21世紀に置き換えても違和感のなさそうな「夜想曲」でした。

 

⑧「忘れられた巨人」(2015年)

愛は生を超えていく。

アーサー王伝説あたりのイングランドが舞台だからか、カズオ・イシグロ作品の中ではハマれませんでした。愛を貫く老夫婦は素敵ですが、自分には難しかったです。気が狂いそうになった「充たされざる者」の方が楽しめました。

 

⑨「クララとお日さま」(2021年)

ノスタルジックな近未来。

カズオ・イシグロの作品で、戦争などの実在した出来事をベースにしていない作品は、「わたしを離さないで」と本作のみです。ただ、「わたしを離さないで」のテーマはクローン羊のドリーが産まれたことと関係があるようにも思えますし、本作はAIや人工知能の発展した現代社会を映し出しているような気もするので、実在のテーマや出来事は作品は無関係ではないでしょう。

前作の「忘れられた巨人」よりも読みやすく、高校生くらいの年齢でも楽しめそうです。時代の変化に伴う不条理な出来事は、過去の作品と違い、今後到来しうるものだと感じるからこそ、多くの年代の読者に受け入れられやすそうな作品だと感じました。

 

進化や発展は人間に不可欠です。寛容ある新たな価値観は時代を動かす原動力にもなります。しかし、波に乗りこなせず、すりガラスで包まれた世界を抱きしめている人物も確かに存在しているのです。それは、未来で暮らす誰かから見た読者自身の姿でもあると気がついた時、私たちはきっとカズオ・イシグロ作品の虜になっていることでしょう。

 

アラサー女、やる気に欠けたまま有給消化する

私は何事に対してもやる気に欠けている。

前日までは元気があって、わくわくして、好奇心旺盛で、海底から宝石を探りだすような気持ちでいたのに、当日になると何もかもがどうでもよくなる。

それも、一日中ゴロゴロしておきたーい!なんて子猫のような生き方を望むようなものではなく、ラクな死に方は存在しないのかと悩むほどの落ち込みようなのだ。

人生に対して疲れてしまった。人生には未練がない。一生懸命生きてきたと思うし、人並みの努力もしてきた。でも、思いどおりに生きられていない時点で、自分の人生は詰んでいる。 

……ということ考え出すのが、GW明けである。浪人時代からの習性であり、いまやこの領域にくると「お!梅雨の時期に突入かな?」という気づきにもなっている。

たぶん、季節性のうつ病だ。

 

こうなることが分かっているので、あらゆる対策を講じてきた。友達と会う予定を入れておくとか、職場の飲み会参加に手を挙げるとか。

だが、これらが上手くいった試しはない。どこかで希死念慮が湧いてきて、予定を入れた4月の自分への恨みをつのらせることとなる。

未来の自分の恨みを買うと分かっているものの、なんとか回避できるのではないかと思うのが人間だ。

今年は英語の目標点が取れたこともあり、もっと大きく、週末一泊二日ひとり旅の計画を立ててみた。幸運にも、貯まったマイルやポイントのお陰で交通費がタダになるためだ。

わくわくしながら、行先近くの美味しいものを探していたが、夢は叶わず終わった。金曜日に体調を崩したためだ。よって、全ての予定はキャンセル。私に残ったのは、ホテルのキャンセル料と無駄な月曜休みであった。

月曜に有給を取得したのは、神経質な性格ゆえ、旅行中と旅行後は9割方体調不良になるのを見越してのことだった。

これは自分の悪いところだが、年末年始と旅行翌日と病気以外で有給を取るのには躊躇ってしまう。12月になってから、慌てて有給取得に走るのもお決まりのパターンだ。それでも年度末には30日くらい有給が余り、翌年に繰りこせない分は切り捨てられている。

月曜日は、身体的には元気だった。

何の用事もなく、突如現れた休日。予定は空白だが、何かをしなければ損な気がした。だが、季節性うつ病(仮)の影響によって、精神的には元気ではない。何もしたくない。

普段なら喜ぶはずの美術館巡りすら億劫であった。Dior展は行ってみたかったが、残念ながら休館日だったし。

何かしなければ。でも、やる気にならない。でも、動かなければ、無駄な時間を過ごすだけだ。貴重な月曜日の休日なのに。

私は逡巡した。

 

そして、決めた。

とりあえず、一人で焼肉を食べよう。話はそれからだ。

 

ソロ活は余裕でこなせるので、ひとり焼肉なんてなんのその。

「いらっしゃいませー」

店員さんの声が響き渡る。店内に一人きりでも気にしない。

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昼から生ビールだ!!!!プレモルだ!!!!

圧倒的!!!背徳感!!!!

なぜお昼のビールは、こんなにも夜より美味しいのだろうか。

私は普段、似非ベジタリアンを気取っているので、友人と飲みに行く時以外はお肉を食べない。最近は飲みに行く友人すらいないので、お肉を食べる機会に乏しい。

久々のお肉はとてつもなく美味しかった。ジューシー。これだけお肉の誘惑に勝てないのだ。真のベジタリアンになんて、一生なれない。都内郊外のチェーン店なので、そこまで肉の品質は高くないはずなのに、まったく気にならない。これは、自分が貧乏舌であるせいか。

ただ、ひとり焼肉の欠点は、とてつもなく忙しいことだ。お肉の世話をしつつ、食べて、飲んでを繰り返す。休まる時がない。

でも、縮むお肉の観察は好きだ。

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ごちそうさまでした。

ビールを飲みほすと、なんだか元気が出てきた。世の中の悩みの全てが、どうでも良くなった。世界って、こんな輝いていたっけ。

定期的なアルコール摂取は、精神安定剤なんだな。(※発想がアル中)

 

気が大きくなったのを良いことに、丸の内へ行くことに決めた。

都内のお気に入りスポットと言えば、丸の内エリアだ。次点で銀座。

年末に駆け込みで有給を取る時などは、カレーを食べてから、丸の内にある三菱一号館美術館へ行くのが定番の過ごし方だ。

しかし、今日の目的地は、三菱一号館美術館ではない。

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オアゾ丸善だ。

英国展を見たいという理由とともに、後回しにしていた英語文献探しが目的だ。

ここの丸善で一番好きなフロアは4階だ。洋書がいっぱい置いてあり、書棚を歩くだけで、ヨーロッパの街中にある本屋さんを散策しているような気持ちに浸ることができる。

洋書はAmazonでも買うことができるが、英語力不足により、目的とする内容の文献ではないかもしれないという心配にかられる。直接見た方が安心だ。

留学のための志望理由書を練り始めたのだが、自分の表現力不足により、中学生レベルの内容しか書けずにいる。changeとmakeを乱用する文章に嫌気がさし、専門書を読む大切さを痛感したというわけだ。

しかし、洋書は高すぎる。これいいじゃんと手に取った本が、かるく10,000円を超えている。志望理由書の参考にしたいだけなのに、諭吉が飛ぶのか。次回のボーナス時に、再度相談としよう。

この後、ヴィンテージグッズからサッチャー政権下の生活を想像してみたり、1か月分の食費以上するパディントンのぬいぐるみに微笑みかけたり、カラフルなバッグの値段に目玉がとび出たりと、様々な発見をしつつ英国展を楽しんだ。

 

書店を徘徊して、1時間以上が経過。普段の運動不足が祟り、書店を歩き回るだけで疲労感を覚えた。

こんな時こそ、お薬が必要。

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甘い物とアルコール。焼肉よりは映えてる写真が撮れた……と思いたい。

このレモンサワー、美味しかった。レモンがゴロゴロ入ってる。平日の昼下がりに飲むアルコールは、やはり格別。背徳感が、いい味出してる。

この時点で、おやつの時間だった。明日は仕事だし、名残惜しいがそろそろ帰るとするか。

左手でインスタをスクロール、右手でバナナすくいと両手を忙しく動かし、やり残したことがないか確認する。

……あったわ、やり残したこと。

さっき、自分で書いたではないか。普段は三菱一号館美術館へ行くって。有給の日にはアート巡りをするのが、いつもの私なのだ。やっぱり今日だって、どこかには行きたい。

アルコールがぶがぶしてる場合じゃない。

こうして、インスタを閲覧して、直感的に気になった展覧会へ向かうこととした。

 

降り立ったのは、天王洲アイル駅羽田空港に行く時に通り過ぎる駅という認識しかなかったが、付近で可愛い展覧会をやっているらしい。

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周りをカップルとオシャレ女子に囲まれ、アルコール摂取済みのすっぴんアラサーは肩身が狭い。カラコンとマスク付けていて良かった。

 

映画「グランド・ブダペスト・ホテル」でお馴染みのウェス・アンダーソン監督。ライトトーンとペールトーンを使い分け、ショーケースにコレクションしたくなるような洒落た世界観が特徴的だ。

邦題では分かりにくいが、本展覧会は海外ではAWA(Accidentally Wes Anderson)という名前であり、展覧会の由来は同名のソーシャルメディアだ。AWAについては、展覧会HPに「世界の実在の風景から、ウェス・アンダーソンの映画に出てきそうな場所を撮影し投稿する、人気Instagram コミュニティ」とある。

本展覧会には、監督が撮影した写真ではなく、監督のファンが立ち上げたコミュニティに投稿された「ウェス・アンダーソン風」写真が展示されている。

そして、Instagramが人気に火をつけた展覧会らしく、展示作品は全て写真や動画撮影、投稿可ということだそうだ。

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入った瞬間からオシャレ。

統一感がある色相と、左右対称な構図は確かに、ウェス・アンダーソン監督風だ。

海外だけと思いきや、日本が撮影場所になっている作品もある。

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関西人にはお馴染みのナガスパらしい。他にも、新幹線を切り取った写真や、嵐山モンキーパーク(京都)の写真もあった。

これ↓は、私が撮影した写真の中でのお気に入り。何気ない車窓の風景だって、こんなにオシャレ。

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作品を単体で見た時の個人的ベストはこれ↓。

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ミラノのカフェらしい。私もイタリアへ留学できたら、こんな写真をいっぱい撮影して、うっとりするようなInstagramを作りたいものだ。

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グランド・ブダペスト・ホテル」からの着想か、ピンク色の建物が被写体となっている作品が比較的多かったように思う。

日常風景の一部を切り取っただけで、非日常な世界観へと変わるなんて、とても素敵だ。

 

満足感。充実感。

展示場を後にした私は、焼肉を食べる前よりも元気だった。

美味しいものを食べて、海外気分に浸って、綺麗な写真を撮影して、自分にとってはこの上ない贅沢だ。

 

気持ちが落ち込むことは多いが、ゆっくりでいいから、心に光を差し込んでくれる経験を積んでいきたい。

 

【余談】

平日昼から焼肉女子会をしたが、アルコールなしでも最高だった。

昼から焼肉って、幸せな気持ちになるんだなと実感した。

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語学は才能。されど自ら助くる者を助く。

 

反応に困る声掛けがある。

「ヨシナリさんは、英語が得意らしいよね!」

この他のパターンとして、「昔からずっと英語が得意だったの?」や「英語ができて羨ましいよ」や「大学で外国系の専攻だったから英語ができるのか!」などがある。

他の話題の際にも時々書いているが、私は留学をするのが目標なので、日々英語学習に励んでいる。だが、中学時代から始まった英語とのお付き合いは10年以上になるところ、英語が得意だとは、一度たりとも考えたことはない。

そもそも、英語が得意だから留学を考えているわけではない。留学をしたいから、英語をやらざるを得ないというだけだ。

 

異論があるとは承知の上で、言いたい。

語学には才能が必要だ。

 

私には、語学の才能がない。それも、壊滅的に。

英語に躓いたのは、中学一年生の夏になる前。記憶にある限り、定期試験では2回ほどを除けば、平均点以下しか取ったことがない。親からは「中学生の英語なんて、丸暗記すれば満点取れるでしょ!」と怒られたが、ノートに教科書本文を飽きるほど書き写し、毎日音読をした上でテストを受けても60点とかなのだから、救いようがない。悔しくて、自室で泣きながらノートをビリビリに破いたことを今でも覚えている。

高校入試は100点満点中40点で、入学後に配られた点数分布表では最下位クラスだった。当然、模試でも偏差値30台や40台を連発。高校の方針に従い、予習は毎回、真面目にやっていたのに。教師からは「まずは国語力を高めましょう!国語で高得点を取りましょう!」という助言を受けたが、国語は学年で上位だったので、自分には解決方法がないのだと途方に暮れた。しかも、私の予習ノートを借りていく友人から「なんで、そんなに英語をやってるのに苦手なの?」と憐れまれた。高校時代の私は、様々な人から馬鹿にされていたのだが、たぶん英語が原因だ。

大学受験も、英語のせいで失敗した。大学入学直後に受けた人生初TOEICは320点しかなかった。英語の履修すら避け、一生英語に触れずに生きていこうと誓った。

予習をせず、あっさりと高得点を取る帰国子女の同級生が羨ましかった。私の予習ノートを借りていくのに、私よりも高得点を取る友人が悔しかった。

いくら英語に時間を割いても、私が彼らの点数を上回ることはなかった。

これを才能の違いと言わずして、何と表現すればいいのか。

 

なぜか、私たちは語学に関して、「才能ではなく、努力がものを言う」と信じている節がある。その割には、英語ができる人や英語が得意そうに見える人に対しては、「語学の才能があるんだね」と努力の過程に目を向けないような発言をする。

矛盾した発言が共存しているのは、自分が英語をできない理由の逃げ道を残していたいだけだと気がついたのは、最近のことだ。

 

語学は才能であると思う。しかし、同時に、努力である程度はカバーできる分野であるという意見には首肯する。

才能がなくとも、1週間でも1か月でも同じことを続ける忍耐力があれば、才能ある人に追い付くことが不可能ではないことも、私は知っている。

 

イタリア語を学んだことを契機として、英語から距離を置こうと決めたにも関わらず、私は英語学習を再開した。いつか、自分も海外へ行ける仕事をしたい、留学をしてみたいと考えるようになり、そのためには英語が必要不可欠だった。

だが、いきなり英語ができるようになるはずもない。就職活動時のTOEICは、履歴書に書けるギリギリラインの600点程度。自信なさげに「国際業務にも興味があります」と告げると、「興味があるからってだけで、できるものじゃないよ?やりたいなら、英語の勉強を頑張らないといけないけど、どうするの?」と面接官に詰められた。その場では「できるできないではなく、やります。誰よりも誰よりも、努力します」と言い切ったが、語学が才能であるとは身をもって知っている。

 

自分の特徴として、諦めが悪いことがある。めちゃくちゃ諦めが悪い。

社費留学に落ちて転職をしようか迷っても、英語学習だけは細々と続けていた。それは、心のどこかで、「語学は才能」と思っても「努力は語学の才能を凌駕する」と信じていたかったからだろう。

 

今の職場には、留学希望者と留学経験者が多い。もちろん、彼らは私よりも英語の点数が高いし、才能もある。たぶん。本人たちは、語学の才能はないと言うだろうけど。2週間前から定期試験の勉強を始めても、平均点以下しか取れないような人間が存在するのだと、想像すらできないのならば、それは彼らが私より語学の才能に恵まれているからだ。

「今年の留学の選考に応募するか迷っているし、これ以上点数を取れる気もしないんですよね」

「大丈夫!IELTS6.5なら取れるよ!」

「応募するにしても、1年間の留学で良いかとも思っていて。それなら、IELTSの点数が現段階で低くても大丈夫ですし」

「絶対に2年間がいいよ。もったいないよ、1年間は。大変だとは思うけど、今、頑張る価値はあると思うよ」

励ましてくれる彼らは、私と違い、アイビーリーグに留学済みだったり、2年間の留学許可条件であるIELTS6.5を取得済みだったりしていた(ちなみに、IELTSは9.0点満点。科目ごとに1.0~9.0点の0.5点刻みに評価され、さらに4技能の平均点が全体(OA)のスコアとなる。)。彼らがすんなり数回の受験で取得できている点数を、私には彼ら以上の受験回数を重ねても取得できない。いくら勉強をしても、私には才能がないから。

そう不貞腐れても、私はやっぱり、努力は才能を凌駕すると信じていたかったのだ。

 

今年の10月で、受験を終了しようと決めていた。結果が出なかった場合は、潔く2年間の留学を諦めようと考えた。諦めの悪い性格だが、1回の受験で25,000円がかかるIELTSに繰り返し挑戦できるほどの貯金がなかった。

帰省が終わり、通常の毎日が戻ったお盆明け。職場の先輩からの励ましもあり、7か月ぶりに重い腰をあげて、私はIELTS対策を再開した。海外ドラマの視聴が趣味なので、試験対策用の勉強をしていない時でも英語自体には触れていた。オンライン英会話はだらだらと出勤前に続けていたし、単語の見直しもしていたが、圧倒的に問題演習量が不足していた。いくら解いても、正答率は変わらず、ここでも頭の悪さと才能のなさを自覚せざるを得なかった。

語学の才能に恵まれず、Helloの綴りも書けなかった私だが、努力はしてきたつもりだ。才能ある人以上に、時間をかけてきたつもりだ。

だから私は、運を味方につけたのだと思う。

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全体的な成績(OA : Overall)で言えば、大したことはない。大学院留学のスタートラインに立てたくらいのものだ。MBA志願者はOA7.0を目指すし、OA7.5や8.0を取る人だっている。それに、どちらかと言えば、もったいない取り方だ。得点源になるはずのリスニングが低すぎる。家で勉強している際にも、かなり点数にバラつきがあるとは自覚していたので、もう少し演習量を増やし、点数を安定させてから受験すれば良かったのかもしれない。練習中には7.0以上を取れていたリーディングも、本番では力を出し切れず、1年前と同じスコアだった。

しかし、スピーキング7.0が目に入った瞬間、OAには何の後悔も湧かず、むしろ努力は報われるのだと思った。IELTSのスピーキングにおける日本の平均点は、9.0点満点中5.5と言われており、私の昨年受験時の点数でもある。カナダの平均点が7.2(≒7.0)らしいので、帰国子女でもなく、国際系の仕事もしておらず、留学経験ゼロの私が7.0を取れたのは奇跡に近い。

たくさんの時間をかけてきた。

信州で暮らしていた時、毎朝5時30分に起床して、オンライン英会話をしていた。寒い日には炬燵に足を突っ込みながら。眠い日にはコーヒーを飲みながら。絶対に諦めなかった。

東京へ戻ってからも、毎朝のオンライン英会話は続けた。連日の出張でホテル暮らしの時には、スマホの小さい画面を覗き込むようにして受講していた。

私には、継続することしかできなかったからだ。

ここまでこだわる必要があるのだろうかとは、何度も思った。自分には才能がないから、全ては無駄かもしれないという不安を抱え、いくらやってもスピーキングで才能のある人に勝つことはできないとも思っていた。

ベストな結果ではない。OA7.0を取るチャンスを逃したかもしれないという気持ちも、少しだけある。それでも、納得できた。2年間の苦労が無駄ではなかったことに安堵した。

決して他人に自慢できる得点ではないが、一応、志望大学の基準点には到達した。それに、留学の約1年前であることに鑑みれば、まだ英語力を伸ばすチャンスもあるし、これで受験を終了するわけでもない。私はこの結果をもって「語学は才能。しかし、努力は語学の才能を凌駕できる」の証明ができたと勝手に考えておくつもりだ。

 

とは言え、まったく英語を話せる実感はない。

何度やっても、英文の意味は取り違えるし、BBCニュースは右から左に抜けていくし、三人称単数は忘れるし、過去のことを現在形で語ってしまう。

だから、語学が苦手という実感は変わらないし、一生変わることもないと思う。

高校時代の英語の授業中、教師が頻繁に用いる関係代名詞の構文があった。

”Heaven helps those who help themselves. ”

重要構文だというこの文章を、私は何度も呟き、ノートに手書きもしたが、試験で出題されても文章構造が分からず、いつも間違えていた。そのため、この文章を目にするたびに、自らの語学の才能のなさと向き合うことになり、天は自ら助けようとする者を見捨てるのだなと、苦々しい気持ちになっていた。

高校時代の私は、この構文をもっと信じるべきだった。才能がないならば、それを上回る努力をしなければならないのに、通常人の努力だけで天の助けを得られると思っていた。これが、当時、英語が苦手だった最大の理由である。

英語を通じて学んだこと自体が、”Heaven helps those who help themselves. ” であると、私はこれから先も信じている。

別れの挨拶

 

開口一番、彼女の瞳からは涙が溢れた。
「関西に、戻ることになってん」
震える彼女の声は、私にしか聞こえていない。右隣のグループは人事異動の話題で盛り上がっている。左隣の男女は顔を合わせてから30分も経っていない様子で、ぎこちなくサラダを分け合っていた。
「今、このタイミングで戻りたかったわけじゃないんよ。確かに、いつかは戻るんかなって、思ってた。生まれ育ったのも関西なわけやし、いつか子育てするなら関西がいいなとも思ってた。でも、今じゃないんよ。今を希望していたわけじゃないんよ」
友人は自分の鞄からハンカチを取り出して、頬をつたう涙をおさえた。
「分かるで、人事異動は上手くいかないって。私も希望してないのに、いきなり信州にとばされたし……」
私は慰めるのが下手だ。きっと、彼女がほしい言葉はこれではないだろうという思いから、語尾が萎む。
タイミングよく、店員が注文を聞きに来た。ハイボールとビールでと、私は手短に伝える。大学生くらいに見える若い女性店員は、瞳が充血している友人と目を合わせず、2杯目からはスマホで注文してくださいと告げた。

私たちは、この春で社会人5年目になる。故郷ではない街。目まぐるしくも刺激的な東京生活にようやく慣れてきたところだったのに、会社の人事異動という自分の意思が反映されない事情により、積み重ねてきたものを手放さなすこととなる。やるせない気持ちで、胸がじくじくと痛む。
そんな彼女の混乱は想像するにかたくなかった。
自分も、大学時代に想定していたキャリアパスとは1ミリも整合していない4年間を過ごしてきた。信州生活だけではない。そもそも、1年目の配属先すら想定外で、4月1日の夜に風呂場で一人で泣いていたし、4月中旬までストレスによる胃痛が消えなかったほどだった。
「どうしたらいいんやろ。いや、どうもできんってことは分かってるんやけど。会社の意向なわけやから」
「転職活動してみるくらいしかないよな」
「まあ、そうよな……。ヨシナリは、転職活動してるんやっけ」
「アプリは登録してるし、エージェントと話したこともあるけど、結局やめた。留学したかったから。だけど、今でも毎日『いつ転職しよう』以外のことは考えてないし、今の部署の人も私が辞めたがってることは知ってる」
「私も登録してみようかな。でも、この5年間でほぼスキルなんて身についてないし、私に転職活動できるんやろか」
友人は重い息を吐きつくした後、再び目尻を拭った。

彼女が東京からいなくなることは、私にとっても衝撃だった。
大学時代の友人の多くが関西に留まる中で、彼女は数少ない上京組の一人だった。三か月に一度は美術館やカフェへ行き、悩みや愚痴を言いあっていた。
月並みな表現とは分かっている。終わりが来ることを、想像していなかっただなんて。けれども、新しい展覧会をチェックして、気兼ねなく誘い合える関係は私の顔に皺が増えても不変だと、信じていたのだ。
気がつけば、東京で暮らす友人は、彼女を除いて2人だけになっていた。他の知り合いは関西へ異動したり、地元へ戻ったりと、東京からは離れていった。
同時に、会社の中を見渡せば、自分のような関西出身者はほぼおらず、8割方が関東地方出身者で占められていた。
20代後半。そういう年齢なのかもしれない。夢を抱えて都会へ出てきても、それが本当に自分の追い求めていたものなのか分からなくなるのだ。
私だって、常々、別の人生があったのではないかと考えている。過ぎた時間から別の人生を捻り出す空想など、時間の浪費でしかないとは自覚しているが、考えると止まらないのだ。
そして、その空想が始まるきっかけは、今までSNSを目にした時だった。
中高の友人がInstagramで娘の誕生日祝いをしている姿。高校時代のクラスメイトが結婚したという報告。地元のカフェへ出かけた感想。
私は考えずにはいられない。
自分にも、こういう人生が相応しかったのではないだろうか。地元の女子大学を卒業して、職場の男性と結婚して、子どもを育てるという、高校時代のクラスメイトと同じような人生が。
心の暗雲に差し込む白い光となっていたのは、東京で暮らす友人との語らいだった。それなのに、もうこの時間を過ごすことができない。
自分の心を救う手段は、自分自身に依らなければならない。自分の人生を肯定する術は、自分自身で探さなければならない。分かっている。
だが、自立心のない私は、また一つ、自分の心を助ける手段を失ったようにも感じてしまったのだ。

アルコールを2杯だけ飲んだ後、私たちは椿屋珈琲店へ行った。たぶん、今日はいないもう一人の関東在住の友人と3人で、一番足を運んだ場所。クラシックとレトロを融合させた雰囲気が大好きで、私達は何時間でもここに座っていられた。
「自撮りなんて、久々やな。大学時代はいつも撮ってたのに」
「仕事終わりでメイク崩れてるし、フィルターあって良かったよな」
「さすがヨシナリ。ちゃんと盛れるやつ」
キャッキャと話しながら、私たちはチーズケーキとともに笑顔の一瞬を切り取った。
大学時代の思い出や、職場の上司の話や、最近のくだらない笑い話など、あと1時間で別れるというのに、いつも通りに過ごした。
「ヨシナリに会いに、イタリアに行くから。わりと本気で」
「ほんまに!?ありがとう!それ、他の子も言うてくれてるんよね。皆、ありがとうすぎる」
彼女は信州にも遊びに来てくれた。寂しがっている私のために、ぬいぐるみを連れてきてくれて。そんな彼女とともに、ジェラート片手にローマやヴェネツィアを巡るというのも、それはとても楽しいかもしれない。
そうなのだ。彼女や今でも会ってくれる関西在住の友人たちから見れば、私だって「去りゆく人」なのだ。そして、私は彼ら彼女らにとって、すでに「去った人」でもあるだろう。
去ったり、別れたり、再会したりを繰り返しながら、それでも自分にふと会ってくれる人の存在自体が、いつまでも心を満たし続けてくれるのかもしれない。

泣き止んだ彼女とは、駅の改札口で別れた。小動物のように可愛らしい、いつもの友人だった。
「話を聞いてくれてありがとう。しかも、仕事終わりの疲れてる時に」
「こっちこそ、ありがとう。関西に帰っても、元気でね」
大学の卒業式の日以来というくらい、別れを惜しんだ。
「イタリア行く前に、絶対に関西には行くから会ってな」
「美味しいお店探しておくわ」
去りゆく人である彼女に、私は笑顔で手を振った。改札を通ってからも、何度も振り返り、手を振った。
明るく見送ることができただろうか。
電車へ乗りこみ、カメラフォルダを開く。
一番最後の写真は、1時間前に撮ったばかりのツーショット。そのまま遡ると、彼女との思い出が溢れていた。
なぜか銀座ではなく秋葉原アフタヌーンティーへ行ったこと。ミュシャ展、シャネル展、浮世絵展と数え切れないほどの展覧会チケット。善光寺での一枚。上京してすぐに自由が丘まで足を伸ばしたこと。大学の卒業式。学生団体での追いコン。今ほど親しくなかった大学一年生の学祭で、騒ぐ金髪ミニスカート姿の私に冷めた目を向ける彼女の姿も、カメラフォルダには残っている。この写真を見つけて、大笑いしたのはいつのことだっけ。
いつかは去りゆく人になる自分。
だけど、この瞬間だけは、去られる人でいさせてほしいと、写真をたどった私は強く思ったのだ。

芸術の面白さ

 

ルネッサンスとモダンアート。新古典主義印象派

様々な時代における西洋絵画を並べてみて、どの時代の作品が好きかと問われたら、きっと困ってしまう。どの時代の西洋絵画もすてきだと思うからだ。繊細で細かいタッチに惹かれることもあれば、大胆で力強い鮮やかな色に気持ちを上向かせることもある。

しかし、西洋絵画の面白さを問われれば、きっと答えることができるはずだ。

 

以下、偉そうに語って恐縮だが、私はアートの専門家ではない。

一度だけ某大学の芸術学部を受験したこともあり、高校生から美術関係の本は読んでいた方だとは思う。ちなみにこの時は、入試1か月前に土壇場で親からの受験許可を得たという事情により、付け焼刃的な知識で受験に挑み、当たり前のように不合格だった。

大学時代の研究テーマはファッション史だったので、芸術に近しい分野だったとは言えるかもしれない。しかし、ファッションはアートとビジネスの狭間を歩く面白い分野だとは思うが、自分には一生をファッションに捧げられるほどの情熱と才能がなく、現在は法律などの真反対の分野で日々格闘中だ。

よって、アート素人の個人的な意見として楽しんでもらえれば幸いである。

 

芸術の面白さや良さが分からないと、友人からも聞くことがある。特に抽象的な絵画のすごさが分からないのだと首を傾げられる。だから、私が様々な展覧会や美術館(様々と言っても、一年間に4回程度だけれど。)へ出向く意味が分からないらしい。
何が面白いの?何が良いの?
確かに。映画のように動くわけでも、ゲームのように自分で攻略するわけでもなく、絵画鑑賞は文字どおり、眺めるだけというイメージが強い。

芸術の面白さとは?
このような疑問を投げかけられた場合、私は大抵、勉強家の友人にはルネサンス、勉強家でない友人には現代美術を勧めてみる。


前者に対しては、西洋絵画は「アトリビュート」を調べてから鑑賞すれば面白いよというアドバイスだ。

ルネサンスに限らないが、西洋美術では聖人や神に関するいわばモチーフが作品内に見られることが多い。例えば、赤と青の服を着た女性を示すのは聖母マリアという具合だ。

私が大学で美術史を受講した際には、これらのアトリビュートを利用して、オリジナル「受胎告知」を描きなさいという面白い課題もあったほど、西洋絵画勉強者にとっては基礎的な知識だ。アトリビュートは、西洋絵画の鑑賞方法が分からない方にとっては、鑑賞時に注目すべき点を考えるきっかけとなるだろう。
だが、アトリビュートの理解には、基礎的な文化や宗教知識が不可欠であり、そもそも人文科学への興味がない方にとっては面白みに欠ける作業になってしまう。


そこで、勉強熱心ではないが芸術に親しみたい方へは、現代美術を勧めるようにしている。

古典的な作品よりも、肩肘張らずに鑑賞することができるからだ。

現代美術には体験型の作品が多く、深く考えなくても芸術に馴染むことができる。ただの楽しめる作品と思いきや、制作者の社会課題に対する問題意識が盛り込まれていることも多く、制作背景を確かめると、より楽しめるのも特徴だろう。

振り返ると、自分自身、最近は県外への旅行時には現代美術館へ行きがちだ。一昨年は富山ガラス美術館へ行き、昨年は青森県にある十和田市現代美術館へ行った。

昔は、ルネサンス印象派が王道だと考えていたのだが、今になり自身の視野の狭さを猛省している。現代美術の方が、鑑賞者と作品が一体化しやすく、まるで海辺にて沈みゆく夕日を眺めているような穏やかな時間を感じることができるのだ。

現代美術は、心の栄養を求める多忙な現代人向けの治療薬なのではないかとさえ思う。

 

しかし、急に芸術に興味を持つことも難しいだろう。人間、未知のことには興味が湧かないものだ。
自分自身も、美術鑑賞を楽しめるようになったのは、中学三年生以降だった。
反抗期の中学生は美術や音楽の授業を軽視していた。高校受験には不要だからだ。内申点には関係あるが、当日のテストには関係ない。美術や音楽は役立たない。表立って、どれだけ美術の授業が無駄であるかを主張する生徒もいたほどだ。そのため、美術の授業中は、数学の問題を解く生徒や寝ている生徒が多かった。

だが、私はむしろ美術や音楽の授業を熱心に受講していた。そこで、初めて美術史というものを習い、抽象画の見方を教わった。知識が身につくと、一枚の絵を前にしただけで「なぜこの大きさにしたのか」や「なぜこの色を使ったのか」など、作成背景を想像できるようになった。

美術鑑賞が好きになったのは、作品を前にして自分の意見を語れるようになったからだ。

解釈には正解がないということも、芸術は性に合っていた。そんな見方もあるよねと肯定してもらえることが心地よかった。


思うに、芸術のことを分からないと言う人は、分からないことを難しく考えすぎなのではないだろうか。答えがないものにも、正解を導きだそうとするように。

解釈には正解がないのだから、「大きい作品で迫力があるな」程度の感想でもまったく問題がないのだ。自分の感想から「なぜ」を広げて、自分なりの考察が思い浮かべば(考えた結果「さっぱり分からない」という感想しか浮かばなかったとしても)、それは立派な美術鑑賞者だ。難しい理論は必要ない。

芸術における最大の面白さは、自分にとって正しい答え、間違いのない答えを探せることなのだ。

 

色々と語ってきたが、最近の私は美術館へ行けていない。有給を取った時に、真昼にのんびりと三菱一号館美術館へ出向く程度だ。ちなみに、私の有給休暇ルーティンは社会人一年目の頃から変わらない。カレー百名店にてインドカレーとチーズナンを堪能してから三菱一号館美術館で特別展を巡り、帰宅してから寝るまで読書という陰キャなのが丸わかりな過ごし方だ。

今年もそろそろ、県外の美術館めぐりの計画でも立ててみようかな。