Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

東京コンプリートゲーム。だから世界を革命したい。(前編)

 

憧れの街、東京。青空の一部となった高層ビルの下で、スタバのコーヒーとスマホを片手に、肩で風を切りながら闊歩する人たちが生きる町。

幼い頃から、この街に溶け込みたいと願っていた私がようやく居を構えたのは、社会人になってからだった。ここが自分の生きる場所。ゲームスタート。アイテムを集めて、即ミッションコンプリート……とは行かないんですよね、残念ながら。

 

日本のドラマはほぼ観ないのに、『東京女子図鑑』だけは繰り返し視聴している。地方出身の主人公・斎藤綾が大学卒業後、就職と同時に上京し、サバイバルな東京をコンプリートしようとする話だ。

ハイスペックな男性との交際を望み、キャリアアップを遂げて、住む場所や価値観を変えていく彼女はとてもたくましい。

主人公の行動規範は、人から羨ましがられることだ。キャリアも結婚も、生活水準も、他人から見てキラキラした生活を送りたいと願い、そのためには手段をいとわない。呉服屋の愛人になっても、愛されていないことには目を向けずに「洗練されたワンランク上の生活を教わった」と言わんばかりに喜ぶ綾は、客観的に見ると痛々しい。それでも彼女の心が満たされ続けるのならば否定できないが、他人との比較による承認欲求はどこかで綻びが生じる。三軒茶屋の生活よりも港区の生活を手にしたいと願い、高収入を得れば独身でいることの虚しさを突きつけられる。

 

地方出身の私は、どうしても主人公と自分を重ねてしまう。

東京に行けば人生を変えられると無邪気に信じていたが、私の東京生活は想像ほど輝いていない。

就職からスタートした駒は前に進まず、ビジョンが見えない。社会人生活が軌道にのったんだから次は結婚だよねという安易な思考で、マッチングアプリで出会った港区出身ハイスぺ男性と付き合った。キャリアも結婚もコンプリートに思えたが、価値観が違いすぎることに耐えられず半年で別れた。私はドラマの主人公のように「ワンランク上の生活ゲット!」と喜べず、自分と彼の育ち方を比較して、日を追うごとに気持ちが塞がってしまったのだ。結果、自分に残ったものは、誰にも愛されないのだという絶望のみで、もう時間はかなり経つのに希死念慮に憑りつかれたままだ。色々書きたいことがあるが、本筋ではないのでこの話はまたいつか。

 

斎藤綾や私のような人間は、満たされない思いに溺れることが多いのだろう。いわゆる「青い鳥症候群」になり、根拠もなく欲望を追いかけられるように感じてしまう。

この理由は、おそらく自分自身が根拠もなく東京に憧れ、明確な目標もないのに努力を続けてこられたからではないだろうか。

若さゆえの夢という抽象的な目的でも叶えられてしまうほど、意志が固くて真面目な性格なのだとは思う。けれども、ふと他人に目をやった時、別の面から見ると人生ステージに差がついていることに気がつくのだ。そして、真面目だからこそ、別の面から見た人生も他人に追いつきたくて努力をする。

しかし、はっきりとした軸は保てていないので、報われることはない。幸せになれない。そしてまた、他人と比較する……このような悪循環に陥るのだ。

例えば、私と友人Aは、大学時代から東京に憧れを持っていた。そして、私は就職により上京し、友人Aは結婚により上京した。字面だけ見れば、私と彼女は東京で暮らすという目標を叶えている。

だが、ここで私は自分が結婚どころか恋人すらいないという事実に気がつき、自分も彼女のように結婚しなければいけないという焦りに繋がる。いくら彼女から「いいじゃん、その代わり安定したキャリアがあるんだから」と言われても、結婚という視点に凝り固まった私には響かない。だって、世の中には私程度のキャリアの人はいっぱいいるし、私と同じ仕事に就いている上に家庭も築いている人だって大勢いる。

どうして他の人のように結婚できないのだろう?どうして誰からも好かれないのだろう?

これらの疑問は、最後に「どうして他の人ほど幸せになれないのだろう?」へと集約するのだ。

 

「東京女子図鑑」の中で、綾は上京して初めての彼氏ができるが、「優しい彼氏といられて不満はないけど、せっかく地方から出てきたのに、こんなどこでも手に入る小さな幸せでいいの?」という疑問を持ち、彼氏に別れを告げてハイスぺ男性を探すようになる。

多くの視聴者は、これが間違いだと指摘するだろう。最初の優しい男性が綾の身の丈にあっていたのに、手放すなんてもったいないと非難する。

自分に重ね合わせても、大学時代の彼氏と付き合い続けていれば、結婚していた現在を生きていた可能性が高い。だが、その幸せだったかもしれない未来を捨てたのは自分自身だ。もっとも、既婚者という社会的ステータスに安心感が得られたとしても、彼との関係におけるその他の悩みに押し潰されていただろうから、幸せと言えていたわけではないだろう。

問題は、冷静に考えても幸せでない自分を想像できるのに、幸せだったかもしれないと心のどこかで考えてしまっていることだ。

この原因にも、「どうして他の人ほど幸せになれないのだろう?」という疑問がある。

私が大学時代の彼氏と別れたのは、価値観や将来のビジョンが異なっていたからで、当時は「もっと自分に合う人がいるはずだ」と信じていた。

しかし、アラサーにもなると、それが幻想であることに気がつく。

愛される人と愛されない人には明確な違いがあり、私は後者だ。考えれば、私は昔から存在感が薄く、遠足で2人組グループを作ると余りの3人目になることが多かった。だが、それでも周囲の人に迷惑をかけたり、不快な空気にならないよう明るく振る舞い、一生懸命に努力してきたつもりなのだ。一方で、誰かをいじめていたり、貞操に欠けていたり、他人の容姿を批判する人は、あっさりと誰かに愛され、数多くの友人から人生を祝福されている。彼ら・彼女らは、生まれながらにして愛される人。だから、彼ら・彼女らは、私のような悩みを持たないでも生きていける。

自分は自分、他人は他人。そう割り切れれば心は軽くなるのだろうが、少なくとも愛される・愛されないという二元論において自分が後者にあたると分かれば、前者よりも劣っているように感じてしまう。

素の自分でいても愛されない。弱味を克服しようとしても愛されない。完全にお手上げだ。

これが、努力が報われないと感じる要因である。

 

私のような悩みに対する解決方法は、いくつか存在する。

それは、環境や判断軸を変えることだ。他人の言動や価値観を変えられるはずはないのだから、自分自身の内面を変えていくしかない。まず、「愛される・愛されない」や「幸せ・不幸せ」という両極端の発想をやめるべきだ。

自分の思考方法を改めるのは、とても難しい。

だから私は、世界を革命する力がほしいのだ。

――なんだよ、「世界を革命する力」って。某90年代アニメのパクリですか。

――はい、そのとおり。

(後編へ続く。)