Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

10年記念

 

翌朝のオンライン英会話を予約しようとしたら「条件に当てはまる講師がおりません」と表示された。

そうか。今日は大晦日。明日はお正月。元旦から仕事をしたい人がいるはずもない。

私は一人で納得して、予約をせずにパソコンを閉じた。

一人暮らしのアラサー女にとって、大晦日はさして大事なものでもない。そりゃそうだ。27回目だ。紅白歌合戦を見る習慣もないし、帰省しているわけでもない。年賀状を最後に書いた日など覚えてもいないほどだ。

それでもちょっとは特別感を演出してみたかったりもする。だって今日は大晦日なのだ。2022年の大晦日を過ごすのは人生一回きりなのだから、特別な日を仕立てあげねば損である。シャンシャン脳内会議でデブ活許可が降りたので、私は5時前に近所のスーパーマーケットへ駆け込んだ。

スーパーマーケットの混雑具合はクリスマスの日とは比較にならないほどだった。BGMの「もういくつ寝ると、お正月~」のリズムに乗りながら日本酒コーナーへ立ち寄ると、案の定、日本酒売場の棚は隙が目立った。皆、考えることは同じらしい。本当はもう少し安い銘柄が良かったのだが、仕方ない。少し高めの「久保田」をカゴにいれて、おつまみを物色し、ついでに切らしていたチーズと卵を加えて清算

半額の巻き寿司ではなく蕎麦にすれば良かったと思ったのは、スーパーマーケットを出た後だった。

 

週末の夜ご飯の時間は、いつも映画やドラマを流している。今日はどれにしようとポチポチしていて目についたのは、映画「ブラック・ミラー バンダースナッチ」だった。最近、ネットフリックスのドラマ「ブラック・ミラー」にはまっている。大晦日とは思えないチョイスだが、私にとってはベストチョイスだった。

この映画はとても面白いつくりになっている。まるでRPGゲームのように、視聴者は主人公の行動を選択できるのだ。異なる選択をすれば、異なるエンドが待ち構えているというまさに近未来的映画。舞台は1980年代だけど。

主人公の行動を選びながら、お酒とお寿司とおつまみをテーブルに広げる。わあ、豪華。

日本酒で喉の奥を温めてから、お気に入りの山椒入りマーラーピーナッツを口の中に投げた。山椒で舌が痺れる感覚が、最高なんだよな。ついでに、バター醤油味のポップコーンに手を伸ばす。ぼりぼりぼり。もう、気分は映画館だ。さらに、ふるさと納税でもらいすぎた北海道産チョコレートバーをがりがり齧る。私は甘辛ミックスしなければ気が済まないのだ。ポップコーンとチョコレートを交互に食べられた幸せが胸の中に広がった。

主人公の行動を選択する場面はいくつもある。私がたどり着いたバッドエンド以外のルートも用意されているとのことだった。グーグル先生に聞いてハッピーエンドルートの攻略を試みたものの、なぜかいつも同じ場面からやり直しを食らう。何度も異なるバッドエンドに行きついたところで、私の一人忘年会は終了した。

 

その夜は、ベッドにもぐりこんで、ミヒャエル・エンデはてしない物語』を読んだ。児童向け作品と侮ることなかれ。大人にならなければ、他人への嫉妬心や欲望が朽ちない恐怖は分からなかっただろう。

ファンタジーの世界に留まりたい気持ちは痛いほど理解ができる。きっと私が彼の立場ならば、現実世界に戻ろうとはしないだろう。想像力により別人にもなれる。終わりなき世界を旅する方が現実を生きるよりも幸せだ。たとえ、自分の記憶や名前を忘れようとも。しかし、「愛」が大事なのだと気がついた少年バスチアンは、ファンタジーの世界へとどまることが間違いだと気がつき、現実世界に戻ろうと決心するのだ。

違うよ、バスチアンくん。現実世界だって、変わらないよ。大晦日を孤独に過ごすことになるんだよ。それなら、ファンタージエンで永遠に生きるのだって変わらないんだよ。むしろ、その方が幸せだよ。過去の記憶を失ったものが留まり続ける「元帝王の都」にいた方が、現実世界で生きるより何十倍も幸せだよ。他人と比較することだって、悩みを持つことだってないんだから。

考え出すと止まらなかった。涙が泉のように湧き出してくる。2023年初泣き at 1 a.m.。

泣きながらファンタージエンを旅していたら、いつの間にか2023年に突入していたのだった。

 

なんだなんだ、目標達成できなかったではないか。

去年の雑文には「明るい気持ちで年越しをする」ことを目標にしたいと書いていたのに。これでは昨年以下ではないか。

元来、根暗でコミュニケーション能力の低い私が明るい気持ちで年越しをしようなど、毛頭無理な話だったのである。もっと自分の性格に見合った目標を設定しなければ。

2023年は「泣かずに年越しをする」とハードルを下げることにしよう。 

 

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さて、前置きが長くなってしまいましたが、自分にとっては元旦よりも本日の方が大事な日です。

高校二年生の今日、ふと読書記録をつけようと思い立ち、読書メーターに1冊の本を登録しました。

記念すべき1冊目に有川浩阪急電車』を選んだのは、実はリアルタイムで読んでいたわけではなく、「本を登録してみましょう!」というチュートリアルの時に咄嗟に思いついた本だったからという理由です。中学時代と高校時代ともに、有川浩作品が大好きでした。時に『阪急電車』は、高校卒業後の自分の姿を想像して繰り返し読んでいた作品でした。

まさか当時は、10年後も読書記録を続けられているなんて想像もしていませんでした。多くのSNSが失われている中で、いまだサービスが続いていることにも驚きです。

自分のことに関しても驚いています。受験生を目前にしていた17歳の私は、大学受験さえ終わればたくさんの本を読めるはずだと信じていたのですが、27歳の私は大学院受験生になってしまいました。逃れられない!受験人生!

 

この10年間で読んだ本は、422冊。多いでしょうか?少ないでしょうか?自分としては、もう少し読めたはずだと思います。

浪人時代までは友達もおらず、勉強もしていなかったので、無限に読書時間が取れました。

忙しくなっても、本を手放すことはないはずだ。読書を削ることなんてないはずだ。そう思っていました。

しかし大学入学以降は、めっきりと読書時間が減ってしまったのです。

読書時間が減った分、誰かと過ごす時間が増えました。友達だったり、当時付き合っていた彼氏だったり。お休みの日は、彼らとともに過ごすことになりました。また、アルバイトや就職活動などにも時間をさかねばならず、自分だけの時間を確保することが難しくなってしまいました。

比例するように、外向的な性格だと捉えられることが増えました。

明るい性格だね、コミュニケーション能力が高いね。

周囲からのかけられる言葉とともに、私の人生は大きく変わりました。高校時代の私には想像できなかったほどの友人に囲まれ、憧れだった職業にもつくことができて、可愛い花柄ワンピースを気兼ねなく購入しています。

朝から夜まで本を読み、空想の世界を旅していた私はすっかり影を潜めました。

今の私は、昔の私が憧れていた私です。そのことに違いはありません。

しかし、人間の本質とは変わらないものなのです。

次第に私は、憧れていた私を演じることに疲れてしまいました。笑顔でいることも、誰かと話をすることも、何もかも。だって、これは本来の私ではないのですから。

本来の私――それは、いつだって、一人きりの世界を漂う時の自分です。笑う必要もなく、誰とも話す必要もない時の自分です。そして、このような自分こそ、最も大切にしなければならないのだと気がつきました。

一昨年末から、自分を取り戻すという意味も兼ねて、日常的な読書を心掛けてきました。まるで高校時代のように。

本を読むとき、私は素でいられます。何かを書く時も、同じように。笑わないでいいことに、愛想を振りまく必要のないことに、誰からも否定されないことに安堵します。一人であることに向き合わなければ、私は自分でいられないのです。

だから私は、ファンタージエンに憧れを抱き、現実世界で泣くのです。

 

10年間で422の世界が私を迎えてくれました。

過去の自分の感想を読むと、少し気恥ずかしくなることもあります。高校生のくせに背伸びしているなあと。日本語のミスに気がつくこともあります。

また、読書傾向も変わったように思います。

当時は海外翻訳作品を一切読まず、かわりにライトノベルを含む日本のエンタメ小説をよく読んでいましたが、今ではむしろ海外翻訳作品を選ぶことの方が多いくらいです。英語を勉強しているお陰で、原書もゆっくり読み進めていくことができています。いつかは、イタリア語の原書にも挑戦してみたいものです。

私はこれからも、自分と向き合える時間を大切にしていきます。たくさんの本に囲まれながら。

 

10年間もの長期間を過ごしてくださった皆様、本当にありがとうございます。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

【2022年下期】読書記録と雑感

 

「幸せ」とは何か。

古今東西の哲学者や宗教家や経済学者らは、永遠のテーマに対して独自の見解を示し続けている。

しかし、「不幸」についてはどうだろう。

「幸」に対する印象は、愛や自由や富をはじめとして個々人により形も優先順位も異なっているが、「不幸」への印象には大きな違いがないようにも思える。それは、生物には「死」という目に見えない恐怖が存在しており、「不幸」と「死」は密接に結びつけられているからであろう。「自由」を失い「死」へと繋がるというのが、「不幸」を語る上でのセオリーである。

ただし、数多の小説家は、「自由」にはバリエーションがあり、「自由」が失われる過程にはあらゆる可能性があることを示唆している。

 

誌的な表現で焚書を描いている華氏451度』(レイ・ブラッドベリ、ハヤカワ文庫SF)は、書物を焼き尽くす昇火士として働く男性が主人公である。書物のない世界など、信じられない。読書の楽しみを奪われた世界を想像すると、胸が苦しくなる。それは、私達にとって、読書の自由は当たり前のことだからだ。
昇火士としての職務に誇りを持っていた主人公は、少女と出会ったことを契機として、現状に疑問を抱くようになる。本を読んでいる読者は、主人公側だ。

そうだ、焚書はおかしい。自由を奪われた監視社会は間違っているのだと、自らの状況と比較して、主人公の行動を正当化する。

だが、自由を奪われている状況下へ抗うことを、共感をしがたい主人公の場合も正当化できるだろうか。例えば、時計じかけのオレンジ』(アントニイ・バージェス、ハヤカワepi文庫)の主人公であるアレックスは常軌を逸脱した不良少年だ。日本で同じ行動をする少年が出てきた場合は、確実に少年法改正運動が巻き起こるだろう。

作中において、彼はルドヴィゴ療法という矯正プログラムを受けた結果、残虐行為ができない「真面目な」少年となる。決して彼が改心したわけではなく、彼の精神的自由が奪われただけなのだが、はたして読者全員が主人公の置かれた状況に同情するだろうか。

少なくとも私自身は、精神的自由を奪われた状況は悲惨であるものの、彼の残虐行為に照らせば、全うな処置であるとも考える。死刑に処されていないならば、ルドヴィゴ療法の方がましなのかとさえ感じる。彼を「幸福」とは思えない。自由を奪われて生きるならば、それは「不幸」に分類されるだろう。

だが、「自由」を失う要因が、本人自身の行動に起因するならば、「不幸」であっても「死」よりはましであるので致し方ないと判断してしまう矛盾を抱えているのも事実なのだ。


失われていくことは、怖い。不幸への道筋を一歩ずつ踏みしめているような不気味さは、きっと錯覚ではない。実験的小説である残像に口紅を』(筒井康隆、中公文庫)のように、音が失われれば世界は成り立たず、いずれは世界が消えてしまうことだって、理解している。失われることは、死にも近い行動なのだ。

『密やかな結晶』(小川洋子講談社文庫)は、一つずつ、あらゆるものが失われていく世界を描いている。読了後、心の底に何となくのわだかまりが残るのは、失われていくことに対して武器を持って抗う人がいないからかもしれない。本作においては、状況下から逃げる人の存在は書かれているものの、逃げきれたのかは読者の想像に委ねられている。

『消滅世界』(村田沙耶香河出文庫では、人工授精が一般化して性行為が失われた世界を舞台にしている。家族計画をも完璧に統制できる社会は「理想郷」の完成形と言えるのか。主人公は、性行為のない世界に疑問を覚えている。読者も、個性を与えずに子どもを育てる環境に気持ち悪さを覚える。主人公と読者の感覚に相違はなく、それ故、「不幸」な世界であり、読了後の感想は主人公の行動よりも世界観に向けられるのだろう。

一方、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ、ハヤカワepi文庫)では、感想に「なぜ主人公は置かれた状況から逃げようとしないのか」という内容が散見される。本作では、この疑問に対する答えは「主人公は生物学的な意味での人間であるから」となるのだろうが、人間とクローン人間には精神的側面において差異が生じるという考えに陥りかねないことに留意しなければならない。


いずれの作品も「不幸」な世界観を生み出しているが、状況や主人公の言動によって、読者が抱く感情は異なるのだと分かる。(『他人事』(平山夢明集英社文庫の登場人物のように、他人への共感力が欠けている人間も存在するのかもしれない。物語の領域に留まることを切に祈っているが。)

「幸せとは何か」という問とともに、「不幸とは何か」も永遠のテーマであるのだ。

意外にも「不幸」の形は「幸せ」よりも時代から独立した存在であるようにも思える。

例えば、1949年に発表された1984』(ジョージ・オーウェル、角川文庫)を読み、作品の世界が現実になる可能性に恐怖を覚える。

肥大化した権力の元で生まれた自由のない世界。監視社会。隣り合わせの死。

50年以上も前から、人間は同じ状況を「不幸」と呼ぶ。

想像力の産物たるディストピアを通じて、私たちは逆説的に「幸せ」の意味を探し続けているのかもしれない。

守るべきは、目に見えるものだけではないと信じ続けるために。「幸せ」と「不幸」は紙一重であると認識し、「自由」を抱き続けるために。

そして、誰かへの祈りを繋いでいくために。

読書は追体験ともいう。自由な国に生きる私たちが「不幸」と呼ぶ世界の片隅で、一筋の涙さえ流せないまま暗闇に身をあずけている人がいることを忘れてはならない。

Where is my stage?

春の匂いが染み込んだ夜は、少しだけ冷え込み、そしてきらめいていた。

「ヨシナリのことが大好きやから、他の誰よりも、ヨシナリの幸せを願ってるねん。ずっと、ずっと応援してる」

京都の四条河原町で、私と友人は抱き合って別れた。毎日のように話していた友人だった。優しくて、強くて、面白くて、いつも私の味方でいてくれていた。上京する私と、大阪で働く彼女は、気軽に会うことができなくなる。大学卒業から数年経っても交友が続くことは少ないとは、周囲の人の話から耳にしていた。だからこそ、卒業式翌日の夜は不安だったのだ。もう二度と彼女と会えなかったらどうしようと。

「私も大好きやで! また、絶対に会おうね。関西に来たら、絶対に連絡する。いつまでも変わらんでいてな」

「うん、いつでも連絡して。飛んでいくから」

別れを惜しみながら、私達は別方向へつま先を向けた。振り返ると、目が合った。また大きく笑いあう。これが、本当の最後。手を振る彼女の傍を、四つ葉のクローバー号が走り去っていった。見つけたら幸福を呼ぶと言われている京都では有名なタクシーだ。

願わくば、彼女の夢が叶いますように。彼女の笑顔と幸福のタクシーのツーショットを心の中に収めた。

 

大学卒業から三年半以上が過ぎた現在、彼女から連絡が来た。

自分の初舞台が大阪で開かれるから、ぜひ観に来てほしいという内容だった。

「ほんまは、役者になりたいねんな」

公務員試験の勉強をしながらも、彼女はそう呟いていた。その後、彼女は公務員ではなく民間就活を開始し、内定獲得後から自分の貯金で養成所へ通いだした。

夢を叶えたのだ。私の友人は。

「ぜひぜひ、観に来てほしい!コメディやから、観やすいと思う!」

「お誘いありがとう!絶対に行く!」

彼女がどれだけ苦労してきたのかを、知っている。彼女の努力を考えると、胸が熱くなった。行かない選択肢なんてない。

友人が夢を掴んだ嬉しさとともに、心の中で後悔の種が芽吹くことを自覚した。

 

私も、何かが違えば、役者になるという夢を叶えられたのだろうか。

 

自分でない私に憧れたのは、中学生の頃だ。

学校の体育館。小さなステージ。有志が集まって上演された拙い劇を、私は体操座りのまま見上げていた。

私の世界は、客席じゃない。向こう側にある。

主役を演じていたのは、「上手い」と評判の女の子だった。幼い頃から声楽を習い、将来は舞台女優を目指しているという。私には、彼女の声も、劇の内容も頭の中に入ってこなかった。ただ、舞台に立つ自分の姿だけが、心の奥で踊り出していた。

自分だったら。

やったこともないくせに、私は夢を膨らませる。根拠のない自信とともに。

私なら、ここにいる誰よりも、うまく演じられる。

 

翌年、私は演劇プロジェクトに参加し、舞台女優を目指している女の子と、オーディションで競った。 

誰もが舞台女優志望の彼女で主役が確定していると思っていたところに、目立たない女子生徒による突然の立候補。当たって砕けろだよ、と周囲からは驚きと冷やかしの混ざった目を向けられた。

「まさか、プロを目指そうとしているあの子に挑もうとしてるの?絶対負けるのに?」

皆が驚くのも無理はない。誰からも期待されていないとは知っていたので、オーディションでは足が震えていた。

半年後、街の片隅の体育館で、私が主演する初舞台の幕が上がることになった。

 

高校生になった私は、迷わず演劇部に入った。廃部寸前の弱小演劇部。地区大会ですら、10年以上も入賞できていない。先輩もおらず、私の仕事はどこかの青春アニメのごとく、組織を立て直すことから始まった。一年生にも関わらず部長になり、手当たり次第に出身中学の同じだった友人に声をかけた。

当時は、演劇に一生を賭けると誓っていた。演劇こそが全てだった。

「お前、どういうことだ」

夏休み前だったと思う。中間テストと期末テストの結果を踏まえた面談の際、私の進路希望票を手にした担任は、ため息をついた。

私の通っていた高校では、一年生の時から進路希望票の提出を課せられていた。初回の調査では東京大学を志望校にしなければならない……そんな暗黙のルールを突き破り、わら半紙に書きこんだのは、東京芸術大学音楽学部音楽環境創造科だった。

「どういうことと言われても。演劇をするために、芸大に行きたいんです」

「そんなに勉強から逃げたいのか」

「勉強より演劇の方が得意だし、好きだからです」

反論しながら、私も心の深い部分に黒々とした空気をため込む。

第一、入学当初に担任自身が言ったのだ。

今の成績だと、地元の国立大学は難しいし、近隣の国立大学もギリギリだ、と。

それなのに、勉強以外の道を志望すると怒られる。理解不能だった。

「演劇やりたいなら、文学部に行けばいいだろう。文学部へ行ったら、演劇の研究もできる」

この成績では文学部も無理なんだろ?と毒づきながら、私はまたもや言い返す。

「私がやりたいのは、演劇の歴史とか、学問的な視点じゃないんです。もっと本格的に演劇自体を学びたいんです」

「演劇サークルに入れば良いだろ、そんなの」

「趣味でやるんじゃなくて、プロになるために、誰かに教わりたいんです」

平行線のまま、面談は終わった。

 

私の成績と進路希望票を見て否定的な反応を示したのは、教師だけではない。言わずもがな、両親だ。

「なんで、芸大なのよ。何のために、こんな遠い高校行かせたと思ってるのよ」

公立高校だから授業料はかかっていない。さらに言えば、私は別の高校に行きたかったのだから「行かせた」ではなく「行かされた」が正しい表現だ。

そんな積もった不満が顔に表れていたからか

「授業料かかってなくても交通費かかってるし、あなたが行きたいって言ったから行かせた」

と追撃された。言い返すと面倒くさいので、私は黙っておく。

「芸大なんて行かせないから。地元の大学より偏差値高いところじゃないと、下宿もさせないから。私立大学もダメだから」

「そんなこと言われても、困るわ。じゃあ私、大学行かない」

「なんで、そうやってすぐ諦めるのよ!なんでお兄ちゃんみたいに、東大とか京大目指すくらい勉強頑張らないのよ!」

逆に、なぜ全ての人間が勉強を頑張る必要があるのだろうか。人間には得手不得手や好き嫌いがあるのだから、一つのことに固執することは間違っているはずだ。

「よりによって、演劇なんて。ああいう世界はね、ろくな人間いないんだから!」

断定的かつヒステリックに怒鳴られたが、両親は芸能関係者ではない。

「絶対に演劇のために大学なんて行かせません!一銭も出しませんっ」

「いいよ、奨学金借りるから」

「なにバカなこと言ってるのよ!奨学金借りさせずに大学進学させるために、どれだけ親が苦労してるか知ってるの!?」

もはや話し合いでもなく、私は一方的に叱られた。

自分のやりたいことを考えなさい。自分で決めた道を進みなさいと、大人はアドバイスをする。しかし、金銭的な問題がある限り、子どもには自分の道を選びきることは不可能なのだ。

だから、役者を目指す人生を捨てることにした。取り敢えず関東の大学を志望してみたものの、根本に抱えた「私が行きたいのは、この大学ではない」という思いをかき消すことができず、勉強には身が入らずじまいだった。

 

大学入学後も、演劇サークルへ入ることを検討した。だが、私立大学へ進学してしまったので、生活費を稼ぐためにアルバイトをしなければならず、時間と費用がかさむ演劇に打ち込むという選択肢はなかった。

大学時代にも友人から宝塚歌劇団劇団四季などの鑑賞に誘われた。だが、私は断った。観たいという感情が湧かなかった。

だって、舞台を見ると嫌でも思い出すのだ。

眩しいライトを浴びながら、別人に変身した「自分」が箱庭の世界を動き回り、声を響かせるひとときを。その幸福な空間と時間を、手放したことを。今の自分が、なりたかった自分ではないことを。

こんなはずではなかった、こんなはずでは。私だって、舞台に立ち続けたいのに。条件さえ整えば、立ち続けられたはずなのに。

すり抜けていった夢の残像を散っている舞台には、興味がなかった。

負の気持ちに支配された私は、舞台を観に行くことが一切できなかったのだ。

 

友人の初舞台は、大阪市内の小劇場だった。客席が温まりやすい広さだ。ここで言う「温まりやすい」は実際の温度ではなく、空気感のことである。主観だが、コメディーの場合は特に、客席の温度感は重要だ。冷えた客席だと、役者側の緊張感が高まってしまう。

舞台での友人はいきいきとしていた。そして、とても上手だった。私の知っていた彼女は、プロになったのだ。神様たるお客様を満足させる一流の役者だ。

幕が下りた時、観客である自分に満足していることに気がついた。今の私は、舞台に立ちたいという気持ちがなくなっている。大学時代まで抱いていた、役者への未練がなくなっていたのだ。

その理由は、友人の舞台を鑑賞して分かった。

役者になりたかった自分は、観客を楽しませるために、役者になりたかったわけではなかったのだ。自分のコンプレックスを直視しないため、別人になりたかっただけなのだ。

自分のことは好きではない。昔からずっと。高校受験の際、願書に記載する長所が思い浮かばず、途方に暮れていた。短所はいくらでも思い浮かぶのに。

別人になりたかったのだ。もっと頭が良くて、可愛くて、性格が良くて、運動もできて裕福な生活ができて、卑屈にならなくて、コミュニケーション能力の高い女の子にだってなれた。舞台の上ならば。私は別人になれた。別人の人生を歩むことができた。自分の嫌いな自分のことを考えないですんだ。

だから私は、演劇が好きで、役者になりたかった。

 

最近も「自分の人生が上手くいかないのは可愛くないからだ。可愛くないと誰からも愛されないのだ」という思いに駆られ、韓国での整形を検討したり、諦めたりしている。こういうことを考える自分自身も嫌で、たびたび落ち込んでいる。

それでも、舞台を観に行けるようになったことで、ちょっとだけ自信を持てた。過去のしこりを乗り越えられるくらいには、精神的に成長できたのかもしれないと、胸を小さく張ってみたり。

最近、業務上の都合で、内閣総理大臣がいらっしゃる場所へ行った。ふと、小学生の頃に、「私もここを歩く人になってみたい。ここを歩くためには、どうしたらいいんだろう」と夢心地で新聞の写真を見つめていたことを思い出した。その場所に立てていることに、我ながら驚いた。

私の夢は役者になることだけではなかった。今も、ささやかな夢を叶えている最中だ。別人になりきらなくとも、私はきっと生きていける。

 

『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)における「人間性」

最近読んだ本の中で、最も衝撃的だったのは、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(早川書房、2006年)である。

読了後の衝撃は図り知れず、読み終わった翌日には再び1ページ目を開いていた。それだけでは飽き足らず、原書の『Never let me go』を購入して、3度目の読書を試みている。

不思議な内容の小説である。カズオ・イシグロ作品の中では知名度も評価も高い。その反面、読むのが苦痛であったというレビューも見られる。ライトノベルのような楽しさはないので、私のように何度も読み返す人間の方が少数派なのかもしれない。

高評価を抱いた人の感想では、「命の大切さや、クローン人間と人間の違いについて考えるきっかけとなった」という内容が見られる。他方で、低評価をつけている人の感想を読むと「なぜ主人公のキャシー達が自らのおかれた環境から逃げ出さないのかが分からず、共感ができない」というものが多数を占める。

私はこの作品に対して、高評価を付ける側に立つ。しかし、共感ができないという低評価者こそ、筆者の意図を正しく理解しているのではないかとも思うのだ。

そこで、本作未読者には恐縮だが、盛大なネタバレをしながら、『わたしを離さないで』において表現されている、人間とクローン人間の違いについて考察していきたい。

 

三部構成の本作は、介護人として約12年間働く31歳のキャシーが、イギリスの寄宿学校ヘールシャムで過ごした日々、卒業後のコテージでの日々、そして「提供者(donor)」となる前の「介護人(carer)」として過ごす日々、それぞれの回想を語る形で話が進められる。なお、読者は物語を読み進める中で、ヘールシャムがただの寄宿学校ではないことや、「提供者」や「介護人」の意味を知っていくこととなる。

……というのが簡単なあらすじだが、このままでは雑文が進まないので、盛大にネタバレをする。

主人公のキャシーは臓器移植用に作られたクローン人間だ。つまり、本作における「提供者」とは「臓器移植の提供者」を示しており、提供が開始される前には同胞である「提供者」の介抱などをする「介護人」として働くことが求められている等、生まれた時点で生き方が定められた存在である。

先の低評価者のように「なぜ逃げないのか」という疑問が浮かぶのは、この設定が理由だ。生まれながらにして最期の運命が定められたクローン人間という設定だけならば、他作品にも見られるものであろう。だが、それらの作品における過酷な運命を強いられた主人公は、自らの運命から逃れることを使命として生きていく。もしくは、運命を受け入れつつも、ヒーローや悪役として別の道を歩むことを望む。

だが、『わたしを離さないで』では誰一人として運命に抗おうとしない。約3回の臓器移植後に死ぬ(作中では「使命を果たす(completed)」)ことが分かっているにも関わらず、さらに「介護人」の仕事のために国中を移動することができるも関わらず、脱走の話題すら出てこない。他作品のように、主人公たちが運命から逃げる選択をしないことへの違和感が拭えないという読者はいるだろう。人間は生に執着する。生きるための選択をしないために、主人公からは人間性が失われてしまっているようにも見える。これが、低評価者の「共感ができない」という感想にも繋がっている要因だろう。

しかし、共感できないという感覚は、作者の意向に沿ったものではないだろうか。

なぜなら、作者はキャシー達を「クローン人間」であると述べさせている。つまり、「人間」ではないのだ。低評価者は「クローン人間」を「人間」と捉えており、自分たちと同じ人間性を持った存在であると捉えている。けれども、本作品においては「クローン人間」は「人間」ではない存在であると考えているのであれば、どうだろうか。クローン人間からは、運命から逃げるという、通常の人間(ここで言う「通常」とは性交で産まれたという意味)が持ちうる感覚が欠落しているのだ。

本作におけるキャシー達が、人間的な感情を持ちながらも人間とは違う存在であることを示唆している表現は端々に見られる。

例えば、「子どもを産めない」ということ。生を繋ぐのは、人間のみならず生物界における重要な使命である。だが、作中における主人公たちは、性行為はするが、子どもはできない。子どもを産むという人間的な機能を科学の力で消すことができても、人間の本能たる三大欲求までは奪えなかったということかもしれない。

本作に出てくる「人間」は、ヘールシャムの保護官(日本語版では保護官のエミリ先生という形で訳されているが、原書では「guardian」の「Miss Emily」であり「teacher」は登場しないなので、もしかすると「先生」という感覚でもないのかとも思ったりする。)とヘールシャムの運営に協力するマダムだけなのだが、彼らもクローン人間である生徒達を自分たちとは異なる存在だと感じている。

実際に、物語の早い段階(60頁)で、人間からクローン人間への見方については、次のように表現されている。

「外にはマダムのような人がいて、わたしたちを憎みもせず害しもしないけれど、目にするたびに『この子らはどう生まれ、なぜ生まれたか』を思って身震いする。少しでも体が触れ合うことを恐怖する。そのことがわかる瞬間、初めてその人々の目で自分を見つめる瞬間――それは体中から血の気が引く瞬間です。生まれてから毎日見慣れてきた鏡に、ある日突然、得体の知れない何か別の物が映し出されるのですから。」

また別の場面では、ヘールシャムの授業中に、第二次世界大戦の収容所を囲むフェンスには電気が流れていたという男子生徒の発言を受けて、別の生徒がフェンスに触るだけで好きなときに自殺できるなんて妙な感じなものだっただろうという発言をしたり、発言を冗談と受け止めたクラスメート達が感電死をする兵士の物真似を始めたという描写がある(122頁)。

この描写を読んで、僅かな違和感を覚える読者は私だけではないはずだ。少なくとも私はこの光景を想像すると、子どもの無邪気さを理由に許される行動ではないはずであり、冗談の範疇を超えているのではないかと、透明な泥水を飲まされたような気分になる。

この光景を見た保護官の様子は、次のように説明されている。

「クラスのそんな騒ぎを見ていた先生の顔から、ほんの一瞬でしたが、血の気が引いたように思います。でも、先生はすぐにいつもの表情に戻り、にっこり笑って、こう言いました。『ヘールシャムのフェンスに電流が通じていなくてよかったこと。事故は起こるものですからね』」

この時に保護官の顔から血の気が引いた理由は、私が抱いた違和感と同じだろう。クローン人間は、やはり人間とは違う思考回路を持つ生き物なのかもしれないという、未知の生命体への疑問が確信へと変わりそうになったのかもしれない。

このわずか数頁後に、保護官の口からキャシー達へ、臓器提供が使命であるということが語られる。

なお、第三部にて、ヘールシャムが開校された理由が明かされる。それは、クローン人間にも心があることを示すためだった。エミリ先生は次のように述べている(399頁)。

「生徒たちを人道的で文化的な環境で育てれば、普通の人間と同じように、感受性豊かで理知的な存在に育ちうること、それを世界に示したことでしょう。」

この「普通の人間」という表現から、保護官さえもクローン人間を自分たちとは異なる存在であると捉えていたことが分かるのだ。読者は、このようなエミリ先生の態度を含めて「友達関係や恋愛に悩むキャシー達は人間と変わらないはずなのに、どうしてクローン人間というだけで幸せを掴めないのだろう。命の重さに違いがあるのだろう」という生死への疑問や、先ほどから繰り返し述べている「なぜ運命から逃れようとしないのか」という憤りを抱くことになるのだ。

しかし私は、これらの感想の根底にある「クローン人間と通常の人間の同一性」自体を疑問視すべきであると考える。これまで考察したように、本作においては、クローン人間と人間には、「人間性」という点において隔たりが見られるためだ。

よって、本来のこの作品が投げかけた問とは「人間性を持たないとしても、クローン人間を人間ということができるのか。仮にクローン人間が人間でなかった場合、臓器移植用のクローン人間を作ることは、倫理的に許されるのか」とするべきであろう。

すなわち、クローン人間からの臓器移植の問題を考えるにあたっては、「人間性」を定義付けることから始めなければならない。

 

本作におけるクローン人間は、生物学的な面では通常の人間との違いはない。ご飯を食べたり、愛情を育んだり、睡眠を取ったりする。言語能力も十分にある上、コミュニケーション能力にも変わりがないので喧嘩や恋愛もする。違いがあるならば、自殺の捉え方や臓器移植から逃れようとしない部分など、人間の生死の捉え方に関する面だ。

哲学的な説明では、「人間性」には「人間の事実上の特性」以外のあらゆる意味を含有しているが、辞書的には「いかなる思想の持ち主でも、生まれつき持っている性質」とされる。この辞書的な意味を採用するならば、本作におけるクローン人間には「人間性」がないという判断になる。通常、人間には生存の要求が含まれており、それ故に食事をとり、性行為をするはずであるが、彼らは「食事もとり、性行為もするが、生存願望はない」という矛盾を抱えた状況を生きているからだ。

他方、人間であることを決定するための判断材料は、人間性の有無に留まらないはずである。例えば、通常の人間でも「食事もとり、性行為もするが、生存願望はない」という状態に陥る可能性はある。もちろん、その場合、うつ病等の精神疾患という診断が下されるはずだが、生存の欲求が消えたという理由をもって、彼らが通常の人間とは異なる分類をされるわけでもない。彼らは通常の人間である。

つまり、「人間性」を持たないクローン人間は通常の人間とは異なるが、広く一般的な意味での人間とみなすことは誤りではない。そのため、臓器提供用の人間を作ることは、そもそもクローン人間は人間の一種なのだから、倫理的には許されるべきではないということになる。

それでは仮に、クローン人間と通常の人間が異なる存在であると考えた場合、臓器提供用のクローン人間を作ることは許されるのか。

作中では肯定されているが、私は肯定すべきでないと考える。なぜなら、先ほどから述べているように、人間が人間たる理由は、「人間性」以外にも存在するからだ。たとえ「人間性」がないことを理由に、クローン人間が通常の人間と異なる存在だと判断した場合においても、彼らが人間でないと100%言い切ることはできない。言い切れない以上、通常の人間の健康に資するという綺麗事で包み込んだとしても、臓器提供により命を落とすのならばその行為は殺害に分類されるはずである。

 

長々と考察してきたが、クローン人間は人間であるのかという問題は、大変奥が深い。脳死の状態で産まれたクローン人間であれば臓器提供用として用いても倫理的に問題はないのかとか、犬の臓器を移植できるようになったとして、臓器提供用クローン犬ならばクローン人間でないので問題は発生しないのかとか、考え出すとキリがない。

科学技術は発展し続けている。私たちが、クローン人間と人間の「人間性」や倫理観に真剣に向き合わなければならない未来は、そう遠くないのかもしれない。

ハロプロを語る。

大学時代の友人しか知らないことの1つに、私がハロプロこと「ハロー!プロジェクト」のファンだということがある。ただ、私にはお金と時間に余裕がないので、ライブには参戦したことがない。CDを買ったり、YouTubeで動画をサーフィンする程度のため、ガチガチのファンというわけではない。あとは、たまにiTunesでアルバムを買うくらい。
しかし、ハロプロ楽曲は、辛い気持ちをすくい上げてくれる大事な存在だ。たいした課金もしていないのに、こんなに助けてくれてありがとうという気持ちになる。

世間的に最も有名なハロプロのグループは「モーニング娘。」だろう。自分自身も、幼稚園児の頃に「恋愛レボリューション21」を街中でよく耳にしていたことを覚えている。口ずさみながら、自分もアイドルになれると信じていたりもした。無邪気!
次にハロプロと再会したのは、高校時代だった。
中学時代は、AKB48が好きだったのだが、公式ライバル設定の乃木坂46が登場したくらいから、メンバーが多すぎて追えなくなってしまった。この後から現在まで坂道系は人気を誇ることになるが、アップビートな曲の方が好みなので、清楚さを全面に押し出す乃木坂のキャラクターは、自分の趣味と異なっていた。
世間の流行を追わなくなった時に気になったのが、なぜかモーニング娘だった。モーニング娘って今もいるのかなと疑問を持った、というくらいの理由だった気がする。
懐かしさからYouTubeで探しだした「恋愛レボリューション21」を聴いてみたところ、何となくすごいなと思った。幼稚園の頃は、ノリの良さしか分からず、歌詞には注目していなかった。
この星は美しい / 2人出会った地球
何となく、「みんなで恋愛革命」の歌詞にも見られる、パーティーのようなノリに注目してしまっていたし、ワンナイトのような軽々しい男女関係を歌っているものだと勝手に誤解していた。
いやいや、この歌が伝えたいのは、愛を育む人間の美しい部分なのでは?この歌自体が、明るいものに見えて、本当はしっとりした愛の本質を歌っているのでは?
深い。考えても正解が出ないほど。アイドル楽曲とは思えないほど、ハロプロの楽曲って深いのではないのか。
それでは現在のモーニング娘。はどうなのかと、視聴したのは「ブレインストーミング」(モーニング娘。)。2013年当時の新曲だった。2013年!!今、これを書きながら、約9年前の曲であることに驚愕している。
この「ブレインストーミング」について、初めて聴いた時の感想は「意味不明」だった。
それまで聴いていたアイドルの楽曲と言えば、大人気だったAKB48AKB48の歌詞は、分かりやすいのだ。当時の流行曲は「ヘビーローテーション」だったが、「僕」と「君」の関係をポップに歌いあげている。情景が頭の中に浮かびやすく、5分間アニメーションのような親しみやすさがある。
それに引き換え、「ブレインストーミング」の歌詞は、一見、歌詞として1つの風景を描いていないように見える。
開始30秒後には
今週の週末だな / 誰かに出会えそうかな
という、AKB48楽曲にも見られるようなフレーズを挟んでいるのだが、それから30秒もしてサビを終えれば
時代を読み取れ
と高らかに歌われる。スケールの格差がすごい。出会いを期待している可愛らしい女の子の脳内を歌っていたのかと思いきや、本当は歴史的考察でもしていたのかと。
一体この曲は何を主題にしているのかと、歌の解釈に躍起になっている間に、まんまとハロプロ沼に嵌った。
以来、9年以上も聞き続けているというわけだ。

 

入口は「恋愛レボリューション21」と「ブレインストーミング」という、ハロプログループを代表する「モーニング娘。」による楽曲であったが、気がつけば他グループの曲も試聴するようになった。
作詞作曲者を問わず全曲に共通するのは、ポップだがスケールが大きくて、ちょっと幸せなのにラメ状の寂しさを混ぜたような雰囲気だと思う。そして、大小様々な愛を盛り込む。一筋縄ではいかない機敏な感情を6分以内の独特なメロディーにのせており、アイドルよりもアーティストの枠組みの方が相応しいクオリティなのだ。
この特徴が如実に現れているのは、「46億年LOVE」(アンジュルム)ではないだろうか。なお、ハロプロつんく♂プロデュースという印象が強いが、現在は本曲のように様々な作詞家が携わっている。
この「46億年LOVE」、地球の歴史そのもののタイトルだが、人類愛や自然愛を厳かに歌っているわけではない。
「一生守る」とすぐに誓うけど / あなたの一生って何度目?
という歌い出しが痺れる。46億年に比較して、人間の一生なんてたかだか80年ほどか。とても短く、とても小さな「一生」という言葉を持ち出すくせに、それすら守れないよねという、皮肉のような強い一節。
2番は、
生き残り続けられたとして / 行き着く先はどこなの?
という、ifにも取れる疑問から始まる。1番の歌い出しで、「一生の約束も守れない」と歌っているが、仮に約束が守られたとしても、私達には先のことなど分からないので、約束が守られるかどうか自体が、本当はものすごく小さいことなのかもしれない。
歌い出しだけを比較すると、少し重たい曲に感じるかもしれない。だが、サビはとても明るい。そして、ちょっぴり寂しい。ハロプロっぽさ全開だ。
来てよ!優しい愛の時代 / 女も男もみな人類/歴史に名を残す前に / アツイ電話くれなきゃ無理無理
「歴史」と「電話」を用いて、時間の長短を対比させている。すごい。裏を返せば、アツイ電話を厭わないほどの愛を80年間育める人でないと、歴史に名を刻めないのかもしれない。もしくは「歴史に名前残すよりも、私に電話してよ!」と照れくさそうに笑う女の子を思い浮かべると、素直ではなく恋愛下手な感じが可愛らしい気もする。ちょっと個性的かもしれないけれど。
いずれの解釈にしても、聴き手を唸らせるフレーズだが、個人的に一番すごいと感じるのは、ラスト前のサビだ。
もしも争いのない未来 / 誰かが堪えてたら意味ない / 夢に見てた自分じゃなくても / 真っ当に暮らしていく今どき
歌い方が上手いことも相まって、心に響くものがある。
人間は、愛を求める。聖人君子も独裁者も、神話の神々も、歴史に名前を残すような人であったとしても。
しかし、同時に私達の生き方は、誰かを傷つけているものかもしれないし、自分の想像とは異なっているものかもしれない。
それでも、今を真っ当に生きていくのだ。
最後はこう結ばれる。
ノッてこう / 結局はラブでしょ / 地球回る 宇宙もDance Dance
ノッてこう / 大きなラブでしょ / 愛は越える/ 46億年
人間の歴史には、愛がある。愛があったから、私達のイマドキが作られている。地球の歴史を超えるくらいの尊い存在は、目には見えないものの、全ての人類にプログラムされ続けているのだ。

ハロプロの楽曲のテーマは、愛だ。恋を中心に据える他のアイドルグループとの違いは、ここにある。恋は一瞬、愛は永遠。彼女たちが捉える時間軸は、とてつもなく長い。46億年なんて超えてしまうほどに。
人間は愛を求める生き物である。だからこそ、永遠のテーマを切なくポップに歌い上げる彼女たちは、とてつもなく魅力的なのだ。

 

ハロプロの虜になって10年目も近い。月日を重ねても、私の胸には彼女たちの歌が響き続けている。

時間の概念を超えたとしても、きっと変わらないんだろうな。そんな訳で、これからも心を支えてくださいますようよろしくお願いします。

ふたたび。そして平和をこの手に。

選挙の日は、うちじゃなぜか、投票うぃって外食する。

参議院選挙の投票を終えた私は、平成のアイドルの名曲を心の中で歌う。ピース、ピース。

そのまま、近所のサイゼリヤへ向かった。頼んだメニューはいつも通り、にんじんサラダとマルゲリータピザとペペロンチーノ。チーズは最高だね。

炭水化物を心ゆくまで摂取し、帰路へ着く。

ピース、ピース!

これが、異動前最後の休日の昼下がりであった。

 

環境ががらりと変わる季節がやって来た。

信州から東京へ越してきた時は、新しい職場へ行きたくないあまり、異動前日にドバイ産ポテトチップス黒トリュフ味を貪っていた。楽しみより、憂鬱感が勝っていたような気がする。

しかし、実際に仕事をしてみると、想像していたほどの絶望感はなく、愚痴を言いつつも円満に1年間を終えることができた。

異常な量のコピー取りやテレワーク非推奨の雰囲気など、昭和時代から時計の針が進んでいないのではないかと錯覚する文化は多々見られたものの、課内の先輩や上司は気さくに話して下さったので、人間関係のいざこざが生じなかった。どうでもいいアレコレの会話でも、上司や先輩と盛り上がることができたことが、今回の職場において一番良かったことであると思う。

「次にヨシナリさんが地方勤務するのは、5年後とか?もっと先?」

「早くて5年後とかですかね」

総合職採用者が地方勤務をするのは、若手で1〜2年間、中堅で1年間と決まっている。

「次、地方勤務をする時も、うちの支社においでよ」

「これから大変かと思うけど、身体に気をつけて頑張ってね」

「いつでも飲みに誘うから!」

多くの上司や先輩が、優しい一言とともに送りだして下さった。お世辞でも、またいつか一緒に働きたいと言ってくださるのは、若輩者の自分にとって、とてもありがたいことであった。

そのような中、ただ一人、課長だけが私に別の言葉をかけた。

「大変でも、これが君の選んだ道だから」

池に投げられた石が深い波紋を描くように、心の中で課長の一言が広がっている。

これが、私の選んだ道。

本当に?

 

サイゼリヤから戻った私は、ディズニー映画を流しつつネイルのお手入れをした。これも、週末ルーティーンの一つ。環境が変わる時こそ、普段どおりの行動を心掛けなければならないと思うからだ。

その後、イタリア語と英語の見直しをしてから、買い物へ出かける。日用品の補充を終えると、晩ご飯をセレクト。お昼ご飯を食べすぎたので、夜はサラダチキンと野菜ジュースに抑えておく。最近のお昼ご飯は、ゆず胡椒味のサラダチキンが定番なのだが、一向に痩せる気配がない。サイゼの炭水化物大量摂取をやめろって?間違いない。

半身浴の後は、最近の週末では恒例のヨガ。オンラインヨガの会員になったものの、「立ち木のポーズ」が「枯れ木のポーズ」になってしまう体幹のなさを痛感している。

こういう、何もない日々って、最高だよね。ピース!ピース!!

 

そこへは行きたくない。希望者ゼロ。だが、そこへ行くのは自分なのだろう。

異動先の内示日に、予想どおりの内示先を告げられた私は、思わず苦笑した。苦笑が喜びの笑みだという誤解を産み、「希望どおりで大喜び」という噂にねじ曲げられたことは心外だが、そこへ着任することになった。

「そこ」こと今回の異動先は、少し変わった部署である。

普段は驚くほど暇だ。どのくらい暇かというと、見かねた向かいの席の同僚から「週刊新潮」の目玉記事「自殺の連鎖が生んだ 『安倍=統一教会』歪んだ憎悪」を共有されたので、感想をメールで返信していた。我ながら、暇人すぎでは。

暇であることを公言しても、周囲は驚きもせず

「僕も本当は午後で帰りたいんですよね〜」

「私も今日は定時ダッシュするんで〜」

と似たような反応をしている。

何より課長から

「やることない時は定時で帰ってね!僕は、絶対に定時で帰るマン!」

と言われた。

嬉しいことは他にも。

昼休憩はきっちり1時間。

普通だろうと思われるかもしれないが、つい先日まで過ごしていた部署は、昼休憩が規則上45分間実質30分間だったので、個人的には大変喜ばしい変化の一つである。

テレワークし放題。

前日に、自席周辺の方々にメールやLINEで「明日はテレワークです」と連絡するだけでオッケー。細かい規則やらテレワーク業務日誌の提出やらがあった以前の部署とは、歴然とした違いがある。

直上は課長であり、部下はいない。

つまり、自分の案件は全て自分に裁量権がある。個人案件には非干渉且つ共通案件を持たない係長3人が同じグループにおり、グループをまとめる課長がいるというイメージだ。自己責任という重さはあるものの、「平素よりお世話になっております」から「平素より大変お世話になっております」への些細なメール修正をされることもないので、一匹狼の自分にとってはかなり気楽だ。

服装規定がゆるい。

花柄スカートを着こなした女性がオフィスを歩いており、もはや感動した。さすがの私も、ショッキングピンクのスカートで我慢して、花柄スカートは解禁していなかったのに。ここなら着られる!私の花柄スカートコレクション!!

ここまでホワイト要素を書き連ねてきたが、それではなぜ、誰も配属希望を出さないのか。

なぜなら、トラブル案件処理担当だからである。

私が暇なのは、組織や天候や日本や世界が平和だからという頼りない理由のお陰である。「別の部署とトラブル!」とか「大地震が発生!」とか「なんか分からんが裁定を頼んだ!」という時に、駆り出される運命なのだ。

そして、喧嘩や自然災害やトラブルが起こらないほど、この国並びに世界が平和でないことは、皆様ご承知おきのとおり。ピース、ピースなんて、幻想に近い。

「まあ、忙しい時でも三徹すれば乗り越えられる程度だから!」

前任者からの引継ぎにあやうく「まあ、それなら何とか」と洗脳されかけたが、「24時間戦えますか?」を超えているではないか。戦えませんよ、72時間も。

誰もやりたがらないはずである。

 

そのようなわけで、貧乏くじを引いた私は、トラブル案件処理担当係長になった。

今のところは、過去に炎上した案件を優しく取り扱って「最近どうですか?大丈夫ですか?」と連絡するという、可愛らしいお仕事をしているが、先行き不透明なために、嵐の前の静けさとしか思えない。

東日本大震災だって、新型コロナウィルスだって、誰にも予想ができなかった。だが、発生した。

何も起こらないなんて、ありえない。

だからこそ、私には課長の言葉が響くのだ。

「大変でも、これが君の選んだ道だから」

まさか。トラブル案件処理担当係長をするために、私はこの仕事に就いたわけではない。

この道を選んだわけではないのに。

 

内示が社内に公表されてすぐに、一通のメールが届いた。1年目でお世話になった上司からだった。

「異次元のフリーダムな部署ですが、君なら大丈夫」

いざ、トラブルが発生した時にどうしようかという不安は消えない。自分の手に負えないほどの事態が発生したらどうしようとも思う。

だが、尊敬する上司からの一言に、心は随分軽くなった。

着任後、案件を調べるためにフォルダを漁っていると(注:「週刊新潮」の感想執筆ではなく、きちんとお仕事はしております。)過去のメールが見つかった。

送信者は、1年目でお世話になった上司。内線番号も役職名も、今の自分の席のものと同じ。

たとえこの道を選んだわけでないにしても、無理かもしれないなんて言わない。私ならできるはずだ。

5年以上も前の同日、この席に座っていた若かりし日の上司に一歩でも近づけるよう、弱音を吐かずに邁進していきたい。

 

だけど、平和って大事だと思うのよ。

心の底から、ピース!!ピース!!!

 

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【2022年上期】読書記録と雑感

今年の目標の一つは、1か月に最低1冊は本を読むことだ。

友人から、1か月に1冊は読書をするという話を聞き、自分も見習おうと思ったことがきっかけである。

 

元々、読書は好きだ。

小学生の頃は校内1位の年間貸し出し冊数を誇り、中高生の頃は毎日勉強もろくにせずに、本から広がる想像の世界に浸っていた。

だが、大学入学後からは忙しさを理由に、あまり読書の時間を確保しなくなっていた。また、英語の勉強時間が増えるにつれて、英語を上達させるためには日本語に触れる時間を減らさないといけない気分になってしまい、私はますます読書から遠ざかっていた。

 

しかし、周囲には多忙でも読書の時間を確保している人もいる。それに、私は確かに語学が好きだし、英語は留学のために必須ではあるものの、同じくらい日本語が好きであることも思い出した。

自分がどれだけ英語を頑張ったところで、決してネイティブスピーカーのようにはなれない。その代わり、私には日本語の美しさを汲み取る能力がある。文章を読むことも、文章を書くことも、大好きだ。英語を極めてグローバル社会に適応していくことと同じくらい、日本語も大事にしていきたいと思ったのだ。

 

2022年の上半期は、当初の目標である一月一冊を上回る18冊の本を読むことができた。ジャンルについても、新書やミステリー、SF小説など幅広く選ぶことができたように思う。

今回は、印象に残った本をピックアップして語ってみたい。

 

年明けに読んだ『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治、新潮新書は、上半期の読書選定に大きな影響を与えた本である。以前からメディアなどで話題になっていた、刺激的なタイトル。実際、非行少年とケーキの話題は数ページのみなのだが、このタイトルに釣られて本書を手に取った方も多いのではないだろうか。

非行少年。犯罪者。彼らに対して、どのような印象を持つだろう。

私たちは、自分のことを「普通」であると思う。だから、「普通」でない彼らの行動原理は理解ができないし、「異常」の一言で片づけてしまいがちである。

身体障碍者。視覚障碍者。彼らを街で見かけると、私たちは手を差し伸べる。成熟した社会においては、彼らを社会全体で支える義務があるとも思う。

それでは、非行少年と身体障碍者の共通項とは何だろうか。

それは、どちらも社会的弱者であることだ。

本書において、筆者は、非行少年が認知力が低く、障碍者と健常者のグレーゾーンに位置するいわゆる「境界知能」にあることを述べている。「見る力」や「聞く力」を補う「想像力」が欠けているため、自分の行動に起因する相手の心情を理解できず、結果として犯罪行動にも繋がってしまうということだ。

生きづらさを抱えているであろう彼らを支援するためには、私たち自身の意識改革や公教育をはじめとする行政側の変革が不可欠である。

しかし、『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(マイケル・サンデル、ハヤカワ文庫)にあるように、私たちは「正義」を各々異なる概念で捉えている。本書で語られているのは「功利主義」と「リバタニアリズム」であるが、実際、ここまで考え方を二分することもできないだろう。事例Aでは功利主義よりの立場だが、事例Bではリバタニアリズムよりの立場ということも十分に考えられる。そもそも、精神的自由が保障されている限り、法律の範囲内での個々人の「正義」を転向させることはできないはずである(この考え方自体にも、反対論は存在するはずだが。)。だから、私たち自身の意識を他人の手により改革することは相当困難だ。

それでは、行政側の支援による改革はどうか。この点、『ブラック霞が関』(千正康裕、新潮新書に書かれているように、行政の変革そもそもに問題がある。

私は、人間とは自分の世界の範囲内でしか物事を判断できないものだと考える。介護業界にいれば介護職の悲惨な労働環境を改善してほしいと要望し、性風俗業界にいれば職業差別に苦しむ従事者への救済を要望する。交わらない世界に対しては問題意識など湧くはずもないし、良くも悪くも自分が大事だ。社会問題のすべてを自分で解決できるはずなどないのだから、せめて自分の生きる世界の範囲内に限定して改善を願うに決まっている。

日本の政策立案の中心となる霞が関でも同様に、旧体質的な紙文化にみられる働き方を改革するべく、元キャリア官僚が現状と展望を訴えている。

国家の中心にいる官僚の働き方が変わらなければ、さらに官僚と関係性の深い政治家の働き方が変わらなければ、国民の要望や社会の問題点を把握することができない。

理解はする。ただ問題は、キャリア官僚の世間一般における職業イメージだ。

キャリア官僚なんて、世間で言われるほどすごいものでもない。なんせ私が目指したほどだ。昔は、東大生の多い職業というイメージが根深かったようだが、今はその状況も変わりつつある。しかも、実際に霞が関で働いているのは、ほとんどが総合職採用者(キャリア官僚)ではなく、一般職採用者(ノンキャリア)である。一般職採用者の中には、高卒で働く方も多い。

確かに、コンビニ店員ほど門戸の広い職業ではないという点ではすごいかもしれないが、メディアやSNSで語られるほどのエリートではない。

だが、世間では、官僚や霞が関の響きからは特権階級をイメージされる。

「ブラックとはいえ、エリートなのだろう。自分が選んだ職業なのだし、もっと酷い生活レベルの人はいる。彼らを優先的に救うべきだ」

「政策立案をする官僚の環境を改善しなければ、国民の生活の質を向上することはできない。霞が関で働く人々の労働環境を変えていくべきだ」

両者の意見は交わりがたい。立場も、見ている世界も違う。

異なる世界に暮らす者が、互いを理解していけるのか――この問いを抱えて半年が経つが、未だ私には回答が得られない。むしろ問いは深まっているとも言え、別の世界について考えないことが最善だという結論にまで至った。

先ほど、私たち自身は自分のことを「普通」であると捉えることを述べた。しかし、「普通」の中にも断層的な階級意識差別意識が根付いている場合が少なくない。

例えば、5人の東大生による強制わいせつ事件。被害者である「普通」の女子大生は、輝かしい東大生の未来を奪った「勘違い女」なのか。実在の事件から着想を得て書かれた『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ文藝春秋は、東大生だけではなく世間からも絶賛された小説である。

小説の中で、被害者の女子は加害者である東大生から、DB(デブでブス)と格付けされる。自分とは異なる世界に住む東大生のために、わきまえて行動する彼女。東大生に恋をし、愛されていないと分かってもなお、「みんなを楽しませる」ために、犯行直前の飲み会では焼酎を飲み続けた。

「普通」であった東大生と「普通」であった女子大生は、両者とも自身の範囲内では「普通」であったが、住む世界は異なっていた。異なる物差しを持つのだから、相手を理解できることと相手に理解してほしいことにもすれ違いが生じるのは、自然な流れであるともいえる。

しかし、自分の世界を絶対的なものとして捉え、自分の価値判断基準は他人も同様であると思い込んで行動することなど、あってはならないはずである。加害者の東大生は、知らず知らずのうちに、偏差値を人間の価値判断基準に用い、自分よりも能力的に劣る女子大生を蔑視していた。

私たちは、他人の精神に介入することはできない。強制することもできない。もしも他人の精神的自由を奪うことが許される社会なら、『密やかな結晶』(小川洋子講談社のように、自由やモノが一つずつ失われてゆく社会が到来してしまうかもしれない。強制せずとも相互理解を深めていくためには、学び続け、自分とは異なる立場の人とも意見を交わし、苦手なものにも挑戦していくことが大事なのだと思う。「普通」は「普通」でないことを忘れないために。

 

私事だが、もうすぐ異動である。2年間の地方勤務(今年は地方と言いつつ首都圏だったが)を終えて、ようやく都内中心部に戻る。

これからどんな生活が待ち受けているのか、自分にも分からない。

だが、たとえ将来が分からなくとも『旅のラゴス』(筒井康隆、新潮社)ラゴスのように、私は足を止めない。辛いことがあっても、ずっと、旅を続けていくつもりだ。

 

忙しい日々の中でも、新しい世界に触れることができるよう、たくさんの本を手に取っていきたい。