Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

語学は才能。されど自ら助くる者を助く。

 

反応に困る声掛けがある。

「ヨシナリさんは、英語が得意らしいよね!」

この他のパターンとして、「昔からずっと英語が得意だったの?」や「英語ができて羨ましいよ」や「大学で外国系の専攻だったから英語ができるのか!」などがある。

他の話題の際にも時々書いているが、私は留学をするのが目標なので、日々英語学習に励んでいる。だが、中学時代から始まった英語とのお付き合いは10年以上になるところ、英語が得意だとは、一度たりとも考えたことはない。

そもそも、英語が得意だから留学を考えているわけではない。留学をしたいから、英語をやらざるを得ないというだけだ。

 

異論があるとは承知の上で、言いたい。

語学には才能が必要だ。

 

私には、語学の才能がない。それも、壊滅的に。

英語に躓いたのは、中学一年生の夏になる前。記憶にある限り、定期試験では2回ほどを除けば、平均点以下しか取ったことがない。親からは「中学生の英語なんて、丸暗記すれば満点取れるでしょ!」と怒られたが、ノートに教科書本文を飽きるほど書き写し、毎日音読をした上でテストを受けても60点とかなのだから、救いようがない。悔しくて、自室で泣きながらノートをビリビリに破いたことを今でも覚えている。

高校入試は100点満点中40点で、入学後に配られた点数分布表では最下位クラスだった。当然、模試でも偏差値30台や40台を連発。高校の方針に従い、予習は毎回、真面目にやっていたのに。教師からは「まずは国語力を高めましょう!国語で高得点を取りましょう!」という助言を受けたが、国語は学年で上位だったので、自分には解決方法がないのだと途方に暮れた。しかも、私の予習ノートを借りていく友人から「なんで、そんなに英語をやってるのに苦手なの?」と憐れまれた。高校時代の私は、様々な人から馬鹿にされていたのだが、たぶん英語が原因だ。

大学受験も、英語のせいで失敗した。大学入学直後に受けた人生初TOEICは320点しかなかった。英語の履修すら避け、一生英語に触れずに生きていこうと誓った。

予習をせず、あっさりと高得点を取る帰国子女の同級生が羨ましかった。私の予習ノートを借りていくのに、私よりも高得点を取る友人が悔しかった。

いくら英語に時間を割いても、私が彼らの点数を上回ることはなかった。

これを才能の違いと言わずして、何と表現すればいいのか。

 

なぜか、私たちは語学に関して、「才能ではなく、努力がものを言う」と信じている節がある。その割には、英語ができる人や英語が得意そうに見える人に対しては、「語学の才能があるんだね」と努力の過程に目を向けないような発言をする。

矛盾した発言が共存しているのは、自分が英語をできない理由の逃げ道を残していたいだけだと気がついたのは、最近のことだ。

 

語学は才能であると思う。しかし、同時に、努力である程度はカバーできる分野であるという意見には首肯する。

才能がなくとも、1週間でも1か月でも同じことを続ける忍耐力があれば、才能ある人に追い付くことが不可能ではないことも、私は知っている。

 

イタリア語を学んだことを契機として、英語から距離を置こうと決めたにも関わらず、私は英語学習を再開した。いつか、自分も海外へ行ける仕事をしたい、留学をしてみたいと考えるようになり、そのためには英語が必要不可欠だった。

だが、いきなり英語ができるようになるはずもない。就職活動時のTOEICは、履歴書に書けるギリギリラインの600点程度。自信なさげに「国際業務にも興味があります」と告げると、「興味があるからってだけで、できるものじゃないよ?やりたいなら、英語の勉強を頑張らないといけないけど、どうするの?」と面接官に詰められた。その場では「できるできないではなく、やります。誰よりも誰よりも、努力します」と言い切ったが、語学が才能であるとは身をもって知っている。

 

自分の特徴として、諦めが悪いことがある。めちゃくちゃ諦めが悪い。

社費留学に落ちて転職をしようか迷っても、英語学習だけは細々と続けていた。それは、心のどこかで、「語学は才能」と思っても「努力は語学の才能を凌駕する」と信じていたかったからだろう。

 

今の職場には、留学希望者と留学経験者が多い。もちろん、彼らは私よりも英語の点数が高いし、才能もある。たぶん。本人たちは、語学の才能はないと言うだろうけど。2週間前から定期試験の勉強を始めても、平均点以下しか取れないような人間が存在するのだと、想像すらできないのならば、それは彼らが私より語学の才能に恵まれているからだ。

「今年の留学の選考に応募するか迷っているし、これ以上点数を取れる気もしないんですよね」

「大丈夫!IELTS6.5なら取れるよ!」

「応募するにしても、1年間の留学で良いかとも思っていて。それなら、IELTSの点数が現段階で低くても大丈夫ですし」

「絶対に2年間がいいよ。もったいないよ、1年間は。大変だとは思うけど、今、頑張る価値はあると思うよ」

励ましてくれる彼らは、私と違い、アイビーリーグに留学済みだったり、2年間の留学許可条件であるIELTS6.5を取得済みだったりしていた(ちなみに、IELTSは9.0点満点。科目ごとに1.0~9.0点の0.5点刻みに評価され、さらに4技能の平均点が全体(OA)のスコアとなる。)。彼らがすんなり数回の受験で取得できている点数を、私には彼ら以上の受験回数を重ねても取得できない。いくら勉強をしても、私には才能がないから。

そう不貞腐れても、私はやっぱり、努力は才能を凌駕すると信じていたかったのだ。

 

今年の10月で、受験を終了しようと決めていた。結果が出なかった場合は、潔く2年間の留学を諦めようと考えた。諦めの悪い性格だが、1回の受験で25,000円がかかるIELTSに繰り返し挑戦できるほどの貯金がなかった。

帰省が終わり、通常の毎日が戻ったお盆明け。職場の先輩からの励ましもあり、7か月ぶりに重い腰をあげて、私はIELTS対策を再開した。海外ドラマの視聴が趣味なので、試験対策用の勉強をしていない時でも英語自体には触れていた。オンライン英会話はだらだらと出勤前に続けていたし、単語の見直しもしていたが、圧倒的に問題演習量が不足していた。いくら解いても、正答率は変わらず、ここでも頭の悪さと才能のなさを自覚せざるを得なかった。

語学の才能に恵まれず、Helloの綴りも書けなかった私だが、努力はしてきたつもりだ。才能ある人以上に、時間をかけてきたつもりだ。

だから私は、運を味方につけたのだと思う。

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全体的な成績(OA : Overall)で言えば、大したことはない。大学院留学のスタートラインに立てたくらいのものだ。MBA志願者はOA7.0を目指すし、OA7.5や8.0を取る人だっている。それに、どちらかと言えば、もったいない取り方だ。得点源になるはずのリスニングが低すぎる。家で勉強している際にも、かなり点数にバラつきがあるとは自覚していたので、もう少し演習量を増やし、点数を安定させてから受験すれば良かったのかもしれない。練習中には7.0以上を取れていたリーディングも、本番では力を出し切れず、1年前と同じスコアだった。

しかし、スピーキング7.0が目に入った瞬間、OAには何の後悔も湧かず、むしろ努力は報われるのだと思った。IELTSのスピーキングにおける日本の平均点は、9.0点満点中5.5と言われており、私の昨年受験時の点数でもある。カナダの平均点が7.2(≒7.0)らしいので、帰国子女でもなく、国際系の仕事もしておらず、留学経験ゼロの私が7.0を取れたのは奇跡に近い。

たくさんの時間をかけてきた。

信州で暮らしていた時、毎朝5時30分に起床して、オンライン英会話をしていた。寒い日には炬燵に足を突っ込みながら。眠い日にはコーヒーを飲みながら。絶対に諦めなかった。

東京へ戻ってからも、毎朝のオンライン英会話は続けた。連日の出張でホテル暮らしの時には、スマホの小さい画面を覗き込むようにして受講していた。

私には、継続することしかできなかったからだ。

ここまでこだわる必要があるのだろうかとは、何度も思った。自分には才能がないから、全ては無駄かもしれないという不安を抱え、いくらやってもスピーキングで才能のある人に勝つことはできないとも思っていた。

ベストな結果ではない。OA7.0を取るチャンスを逃したかもしれないという気持ちも、少しだけある。それでも、納得できた。2年間の苦労が無駄ではなかったことに安堵した。

決して他人に自慢できる得点ではないが、一応、志望大学の基準点には到達した。それに、留学の約1年前であることに鑑みれば、まだ英語力を伸ばすチャンスもあるし、これで受験を終了するわけでもない。私はこの結果をもって「語学は才能。しかし、努力は語学の才能を凌駕できる」の証明ができたと勝手に考えておくつもりだ。

 

とは言え、まったく英語を話せる実感はない。

何度やっても、英文の意味は取り違えるし、BBCニュースは右から左に抜けていくし、三人称単数は忘れるし、過去のことを現在形で語ってしまう。

だから、語学が苦手という実感は変わらないし、一生変わることもないと思う。

高校時代の英語の授業中、教師が頻繁に用いる関係代名詞の構文があった。

”Heaven helps those who help themselves. ”

重要構文だというこの文章を、私は何度も呟き、ノートに手書きもしたが、試験で出題されても文章構造が分からず、いつも間違えていた。そのため、この文章を目にするたびに、自らの語学の才能のなさと向き合うことになり、天は自ら助けようとする者を見捨てるのだなと、苦々しい気持ちになっていた。

高校時代の私は、この構文をもっと信じるべきだった。才能がないならば、それを上回る努力をしなければならないのに、通常人の努力だけで天の助けを得られると思っていた。これが、当時、英語が苦手だった最大の理由である。

英語を通じて学んだこと自体が、”Heaven helps those who help themselves. ” であると、私はこれから先も信じている。