Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

カテゴライズ

私たちは、カテゴライズが好きだ。

食の好み。血液型や誕生日。パーソナリティ。何らかの問題について賛成派・反対派と二分することも含めれば、私たちは「属さない」選択肢を見つけることが、とてつもなく難しい毎日を生きている。

同時に、私たちは居場所があることに安心感を覚える。少数派であれば、なおのこと。繋がりがあれば、自分の孤独感や不安感を紛らわすことができるから。

 

私は、自分の人生に対して生きづらさを抱えている。

人はそれぞれ、心の底に悩みを抱えているのだから、私だけが不幸なはずはない。むしろ、他人から見た私は、とても幸せな人間に見えている可能性だってある。実際に、よく「悩み事なんてなさそうだよね」と声をかけられる。IELTSのスピーキングテストでは、二回連続で「あなたにとっての幸せとは」という話題を投げられた。これは関係ないか。

 

最近、HSPという心理学的概念について、メディアに上がることが多くなっている。HSPとは、人口の約20%ほどが該当するとされている、神経質で感受性が強いとされる性格的性質のことだ。インスタグラムで検索すると、本当にプロなのか疑いを持ってしまうカウンセラーやビジネス臭が漂うアドバイスなど、数多くの投稿を見ることができるので、詳細は割愛する。

この性質を持つ人は、周囲のことを気にしすぎてしまうあまり、他人と関わるのが苦手だという。他方、昨今ブームになっているHSP診断等には懐疑的な見方もあり、安易に自分の性格をHSPだと判断するべきではないことも考慮しなければならない。

様々な意見がある中、HSPという性質が科学的にもきちんと検証されているものだと仮定して、インターネットの情報を信じるならば、私はHSPの中でもさらに特殊なHSS型HSPというものにカテゴライズされるらしい。インターネットの「専門家」曰く、通常のHSPは内向的な側面が強いのに対し、人口の約6%ほどが区分されるHSS型HSPは、繊細で傷つきやすいにも関わらず社交的に刺激を求める性質を持つのだという。

本質は他人の視線を気にしてしまう繊細なタイプであるのに、自ら情報や発見を求めて新たな世界に飛び込むため、自分の行動と内面に矛盾を抱えてしまうことが、生きづらさの要因である……と理解している。

 

刺激を求めるが、他人と関わると疲れる。他人からは社交的で明るいと思われるが、本当は一人で家に引きこもる方が好き。他人とはすぐに仲良くなるが、少ししたら距離ができる。

HSS型HSPの特徴は、ほぼ全て私自身に当てはまる。初めてインターネットで見かけた時には、自分の性格を言い当てられたようで非常に驚いた。

私は精神的に疲れると、今のように文章に起こすことが多い。書いているうちに頭の中がクリアになることもあるし、後から見直すと同じことで悩む自分にも気づくことができるからだ。そして、このブログでも私は毎度のように「他人から見た私・私から見た私」について悩みを抱えている。

そう、生きづらさは消えないのだ。その理由が、性格的な傾向によるものだとカテゴライズすることは、自分の救いになるのかと思いきや、そうとも言いきれない。

 

HSPさんは繊細さん――こんな文言を見るたびに、私は顔をしかめてしまう。

私が私であることを、誰かに判断してもらうことは正しくないのではないかと考えてしまうからだ。こんなことを考えるのもまた、自分がHSPたる所以なのかもしれない。

 

最近、私は在宅研修を受けており、高校の授業の如く先生から発言を求められる。もちろん、コロナという情勢を踏まえて、オンライン講義だ。私は毎日、画面越しの誰かに向かって解答をする。

とてつもなく、苦痛だ。

何が苦痛かって、人前で答えを口にすることが、だ。

発表することが自分の心理的負担になっていることに気がついた時のことは、もう覚えていない。事前に担当が割り振られていて、指名されることが分かっているならまだしも、突然指名された場合は確実に頭の中が真っ白になる。順番に指名されていき、自分は問四か問五のどちらが当たりそうだと予想できる時も同様だ。自分に指名が回ってくることを考えると、先生の解説や他の生徒の発表内容がまったく頭に入らなくなる。

融通のきかない私が対応できるのは、事前準備が可能で且つ確実に当たる事柄が判明している時だけなのだ。

 

しかし、不幸なことに、誰も私が極度のあがり症であることを知らない。と言うのも、伝えたところで誰も信じてくれないからだ。

これには、私が演劇で役者をやっていたことも関係しているのだろう。

大舞台で演じられるんだから、たかだか英文和訳を答えるのにも、基礎的な歴史事項を答えるのも、黒板の板書も緊張するはずがないと思い込まれてしまっている。

私に言わせれば、演劇と授業の指名はまったくの別物だ。演劇では自分と別の人格を演じられる上、動作も相手の感情も全て予測ができる。たくさん練習を重ねるし、長時間舞台上にいれば、「他者から見た役名A」の視点で物事を判断できるのだ。私は別人格という鎧に守られており、「他者から見たヨシナリ」を意識せずに行動できる。

だが、授業は違う。頼れるのは、自分だけだ。もし間違えると、他人からどう思われるだろう。もし、本気で分からない問題が振られたらどうしよう。際限なくイフが現れ、私は不安感から逃れることができない。

 

このような私の事情を話しても、甘えだと一蹴される。

誰だって緊張する。場馴れしていないだけ。発表では、しっかり答えていただろう。

親さえも、自分の娘は図太くて緊張しない子だと思い込んでいる。

 

大学入学後は想定外な発言機会もなくなり、講義内容をゆっくり考えることができるようになったので、精神的にはかなりラクになった。

頭の中真っ白現象も克服したかと思いきや、そうではなかった。あの感覚を忘れていただけだった。今回の在宅研修で、私は高校時代にタイムスリップしたかのように、毎日、緊張感と戦っている。

 

大人になった私は悟った。

開き直った。

授業は、無理だ。

場馴れや甘えなど、理由を並べられても関係ない。私の性格的な特性上、授業は苦痛なものなのだ。

 

いつかは慣れると言われ続けたが、私は大人になってもあがり症を克服できなかった。

だが、自分にも「場馴れ」によって確実に成長したと思える部分もある。

頭の中が真っ白になったらすぐに、「分かりません」を口にできるようになった。

中には「分かる分からないの問題じゃないんですけどね」と説教をする方もいらっしゃるが、落ち着いた後に心の中で「頭の中が真っ白になった人に、答えを求めるのは無駄ですよ」と言い返している。チキンなので、直接は言えない。心の中でイキるだけだ。

 

私はふと、自分と同じような人がいるのか気になり、グーグル検索してみた。

すると、自分が思っていたよりもたくさんの人が「頭の中が真っ白になる」という悩みを抱え、予想どおり「場数を踏むことが大切だ」という助言に溢れていた。

海外ドラマでよく見かける禁酒会のように、「極度あがり症の会」を開けば需要があるのではないだろうか。いや、そもそも輪になって皆の前で悩みを共有する状況が苦痛なので、参加者を募っても開催までこぎつけられるかは怪しいところか。

 

HSPという区分けが好きではないなどと言いつつ、私もカテゴライズが好きなのかもしれない。場数を踏んでも緊張する状況に慣れないから悩んでいる人には寄り添いたくなる。見知らぬ人なのに、仲間意識すら感じる。

この時間も、どこかで頭の中が真っ白になっている方に向けて、たくさんのエールを送りたい。

皆さん、頑張りましょう。