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【2022年下期】読書記録と雑感

 

「幸せ」とは何か。

古今東西の哲学者や宗教家や経済学者らは、永遠のテーマに対して独自の見解を示し続けている。

しかし、「不幸」についてはどうだろう。

「幸」に対する印象は、愛や自由や富をはじめとして個々人により形も優先順位も異なっているが、「不幸」への印象には大きな違いがないようにも思える。それは、生物には「死」という目に見えない恐怖が存在しており、「不幸」と「死」は密接に結びつけられているからであろう。「自由」を失い「死」へと繋がるというのが、「不幸」を語る上でのセオリーである。

ただし、数多の小説家は、「自由」にはバリエーションがあり、「自由」が失われる過程にはあらゆる可能性があることを示唆している。

 

誌的な表現で焚書を描いている華氏451度』(レイ・ブラッドベリ、ハヤカワ文庫SF)は、書物を焼き尽くす昇火士として働く男性が主人公である。書物のない世界など、信じられない。読書の楽しみを奪われた世界を想像すると、胸が苦しくなる。それは、私達にとって、読書の自由は当たり前のことだからだ。
昇火士としての職務に誇りを持っていた主人公は、少女と出会ったことを契機として、現状に疑問を抱くようになる。本を読んでいる読者は、主人公側だ。

そうだ、焚書はおかしい。自由を奪われた監視社会は間違っているのだと、自らの状況と比較して、主人公の行動を正当化する。

だが、自由を奪われている状況下へ抗うことを、共感をしがたい主人公の場合も正当化できるだろうか。例えば、時計じかけのオレンジ』(アントニイ・バージェス、ハヤカワepi文庫)の主人公であるアレックスは常軌を逸脱した不良少年だ。日本で同じ行動をする少年が出てきた場合は、確実に少年法改正運動が巻き起こるだろう。

作中において、彼はルドヴィゴ療法という矯正プログラムを受けた結果、残虐行為ができない「真面目な」少年となる。決して彼が改心したわけではなく、彼の精神的自由が奪われただけなのだが、はたして読者全員が主人公の置かれた状況に同情するだろうか。

少なくとも私自身は、精神的自由を奪われた状況は悲惨であるものの、彼の残虐行為に照らせば、全うな処置であるとも考える。死刑に処されていないならば、ルドヴィゴ療法の方がましなのかとさえ感じる。彼を「幸福」とは思えない。自由を奪われて生きるならば、それは「不幸」に分類されるだろう。

だが、「自由」を失う要因が、本人自身の行動に起因するならば、「不幸」であっても「死」よりはましであるので致し方ないと判断してしまう矛盾を抱えているのも事実なのだ。


失われていくことは、怖い。不幸への道筋を一歩ずつ踏みしめているような不気味さは、きっと錯覚ではない。実験的小説である残像に口紅を』(筒井康隆、中公文庫)のように、音が失われれば世界は成り立たず、いずれは世界が消えてしまうことだって、理解している。失われることは、死にも近い行動なのだ。

『密やかな結晶』(小川洋子講談社文庫)は、一つずつ、あらゆるものが失われていく世界を描いている。読了後、心の底に何となくのわだかまりが残るのは、失われていくことに対して武器を持って抗う人がいないからかもしれない。本作においては、状況下から逃げる人の存在は書かれているものの、逃げきれたのかは読者の想像に委ねられている。

『消滅世界』(村田沙耶香河出文庫では、人工授精が一般化して性行為が失われた世界を舞台にしている。家族計画をも完璧に統制できる社会は「理想郷」の完成形と言えるのか。主人公は、性行為のない世界に疑問を覚えている。読者も、個性を与えずに子どもを育てる環境に気持ち悪さを覚える。主人公と読者の感覚に相違はなく、それ故、「不幸」な世界であり、読了後の感想は主人公の行動よりも世界観に向けられるのだろう。

一方、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ、ハヤカワepi文庫)では、感想に「なぜ主人公は置かれた状況から逃げようとしないのか」という内容が散見される。本作では、この疑問に対する答えは「主人公は生物学的な意味での人間であるから」となるのだろうが、人間とクローン人間には精神的側面において差異が生じるという考えに陥りかねないことに留意しなければならない。


いずれの作品も「不幸」な世界観を生み出しているが、状況や主人公の言動によって、読者が抱く感情は異なるのだと分かる。(『他人事』(平山夢明集英社文庫の登場人物のように、他人への共感力が欠けている人間も存在するのかもしれない。物語の領域に留まることを切に祈っているが。)

「幸せとは何か」という問とともに、「不幸とは何か」も永遠のテーマであるのだ。

意外にも「不幸」の形は「幸せ」よりも時代から独立した存在であるようにも思える。

例えば、1949年に発表された1984』(ジョージ・オーウェル、角川文庫)を読み、作品の世界が現実になる可能性に恐怖を覚える。

肥大化した権力の元で生まれた自由のない世界。監視社会。隣り合わせの死。

50年以上も前から、人間は同じ状況を「不幸」と呼ぶ。

想像力の産物たるディストピアを通じて、私たちは逆説的に「幸せ」の意味を探し続けているのかもしれない。

守るべきは、目に見えるものだけではないと信じ続けるために。「幸せ」と「不幸」は紙一重であると認識し、「自由」を抱き続けるために。

そして、誰かへの祈りを繋いでいくために。

読書は追体験ともいう。自由な国に生きる私たちが「不幸」と呼ぶ世界の片隅で、一筋の涙さえ流せないまま暗闇に身をあずけている人がいることを忘れてはならない。