Weekly Yoshinari

Weeklyじゃなくてさーせん🙏🏻

近頃、涙腺がもろい

大学四年間を通じて、東京ディズニーランドへ一度も行かなかったことは、イマドキの女子大生としては、なかなか珍しかったのではないかと思う。関西に住んでいたし、苦学生だったので旅行費用を捻出できなかったからというのが理由の大部分を占めるものの、そもそも私はディズニーへの興味が薄かった。「最後は必ずハッピーエンド」に共感できなくなったのは、小学校高学年になった頃だったか。

だって、信じられるはずがない。

たくさんの人が、ラブアンドピースのTシャツを着て、特定の人を擁護するために、ヘイトを撒き散らしているではないか。イデオロギーがぶつかり、顔の見えない世界で小競り合いだって起きている。キスしてエヴァーアフターのディズニー観は、現実において限りなく存在する可能性は低いのだ。

何となく、ディズニー観は子どものもの、という認識が出来あがった。避けるわけではないけど、敢えて近寄らないという感じだ。

「この間、ディズニー行ったんだ!」

「へえ、いいね!私も行きたい!」

まあ適当に話は合わせておくか、と私は明るい声で羨ましい素振りを見せていた。

 

私のディズニー観を変えたのは、卒業旅行で友達と香港のディズニーランドへ行ってからだった。

私は人生で初めて、ダッフィーの耳をつけた。晴れて、私も、夢の国の住民になった。

卒業旅行の時期は、今よりは随分ましだが、気分が落ち込んでいる時だった。卒業式の1か月前。働くことへの楽しみや期待は皆無で、むしろ不安と絶望感に侵食されていた。

好きなだけ本を読むことも、海外ドラマを見ることも、小説を書くこともできなくなる。内定はもらったものの、自分に仕事ができるはずがない。何より、月曜日から金曜日まで、人間と会わなくてはならない。私は一人でいる時、棺桶で眠っているような気持ちになる。このまま、起き上がる日が来なければ良いのに、なんて思う。これだけ書くとヤバいやつだが、決して、病んでいるわけではない。

ここは、夢の国だ。輝いたものしかない。海の底にいる人魚の少女が人間になる日を夢見て、外の世界を眺めたい王女は魔法の絨毯で空を飛ぶ。微睡みの中で、少女が不思議な世界を旅することだって、ここでは現実だ。

この世界にいれば、私の指先でも魔法の粒に触れられるかもしれない。あり得ないことだとしても、雪の欠片が掌にふわりと舞い降りてくるくらいの可能性を信じられるのだ。

 

かくして私は、夢と魔法の可能性を信じてディズニー映画を漁りだした。幼い頃見ていたクラシック映画を見返したり、最近の定番である実写版を見直したりと、時によって違うが、私は数時間だけユートピアへ羽ばたけるようになった。

羽ばたき、心が温かくなるかと思いきや、泣く。どれを見ても、目頭が熱くなる。

幼い頃はどうしてディズニー映画を見て泣かなかったのか、不思議なほどだ。

全てのディズニー映画には、「信じる者は報われる」及び「努力したものは救われる」というある種の宗教的価値観のようなものが根底にある。これらは本来、絶対的に叶うものではないが、ディズニーの中では絶対的価値観なので、作品の主人公が困難から目を逸らすことはない。加えて、「愛が全てを凌駕する」という決まり事がある。これも「努力は必ず報われる」と同様、現実世界においては絶対的価値観になり得ない。愛より金、なんて話だってある。

だが、このような宗教的価値観を差し引いても、ディズニーの世界と現実世界には、共通点がある。

それは、幸せを手にするためには、段階を踏まなければならないということだ。プリンセスで例えるなら、「辛い経験→王子様と出会う→見初められる」という図式だ。幼い頃の私は、「王子様と出会う→見初められる」の部分に憧れを抱き、下積み部分に光を当てられなかった。自分もプリンセスになりたい、なんて頬杖をついて夢想していた。

けれども、今の私は知っている。

努力は必ず報われるものではないし、「辛い経験」の段階で輝かしい未来を考えるのがどれだけ難しいことか。だから、今の私は、幸せの前段階の苦労に感情移入してしまう。母親にスポイルされて塔に閉じ込められるなんて辛いよなラプンツェル、とか。ずっと悪役なんて悩み続けるよなラルフ、とか。中には「ノートルダムの鐘」のように「美しい人が得をする」という人間臭さを説いている珍しい作品もあるが、だいたいは苦労の先に、愛情や友情で彩られるハッピーエンドがある。(私はこの「ノートルダムの鐘」が大好きだ。ヒロインのエスメラルダは、他のディズニープリンセスよりも気に入っている。あと序盤のミュージカルのような音楽も素晴らしい。もっと有名になってほしい作品の一つ。)

ディズニーのハッピーエンドが示すこと。それは、幸せは求める者しか手にできないという、ひどく単純だが、時に忘れてしまうことなのかもしれない。行動せずして綺麗なドレスに身を包むことはできないのだ。

 

ここまで明るげに綺麗事を並べてきたが、今の私が一番欲しているのは、現実逃避の時間だ。

 

スーパーへ向かう徒歩10分。ピッポピッポと鳴り始める青信号を渡りながら、涙が頬を伝う。40度のお湯に肩まで浸かる。筋肉が弛緩すると、涙腺まで柔らかくなってきてしまう。ベッドに潜り込む前、ボディミルクで足をトントン叩きながら、視界がぼやけていく。

朝から夜まで、私はガラス玉の真ん中で、体操座りをしている。額を膝にくっつけて、両指を交互に組み合わせて。私が誰のことも見えないように、誰も私のことが見えなければいいのにと思ったりして。ガラスをさらにガラスで被って、この中全てが曇ってしまえばいい。

……馬鹿みたい。

私は一人ぼっちだ。

やるべき仕事や見なければいけない資料は分かる。でも、仕事の進め方が分からない。どの程度の出来で上司にあげればいいかとか、いつまでに完成させなければいけない仕事なのかとか。周囲に聞こうにも、私だけ違う仕事をしているから、話しかけられない。会社の人の連絡先も知らないし、辛いと愚痴を言える人もいない。朝が来るのが苦痛だ。また、あの8時間が待っていると考えると、気分が重くなる。それでも、今日は昨日よりもっと良くなるはずだからと言い聞かせて、無理やり身体を動かしている。幸か不幸か体重が落ちた。これは、前の職場にあったお菓子ボックスの習慣が、今の部署にないからか。

本当に、私がやらなければならないことは、現実直視。でも、たった2時間なら、逃げても許されるだろうか。

また、鼻がつんとしてきた。

画面の向こうでは、プリンセスになった少女と、彫りの深い顔立ちの王子が唇を重ねていた。