桜色と空色を並べられたら、桜色を指さす。
桜色と藍色を並べられたら、六秒間だけ頭を捻るが、桜色を手にするだろう。
では、桜色と黒色を並べられたらどうか。私は、迷うことなく黒色を引き寄せる。
ということを伝えると、自分の友人は
「意外だね。ピンクを選ぶと思った」
と私が冗談を口にしたような反応を見せる。
「え、そうかな?」
と笑い返すが、自分の好みはピンクだと思われているのか、と気づかされる。
友人の言葉は、あながち間違いではない。
もしも、ショッキングピンクと黒色から選択を迫られたなら、ショッキングピンクを選び取るだろう。なぜなら、そちらの方が「自分ぽい」から。
この「自分ぽい」は、大変難しい概念であると思う。
自己認識と他者認識に差が生じるのは仕方ないが、自分の場合はさらに複雑化し、入れ子構造になってしまっている。
これは、心の底に潜む岩のように、無常に存在し続けている問題である。
私は自分を「黒色」だと考えている。しかし他人は「桜色」を私だと思い、意外性を覚える。それが、同じピンクでも「ショッキングピンク」ならば、一見すると自己認識も他者認識も合致するのだ。
だが、本当に合致しているのかについては、必ずしも肯定できない。選んでいる理由が「自分ぽい」という他者の視線を意識したものだからである。
自己認識の中に、他者認識が入り込み、他者認識の中の自己認識で嗜好を判断しているのだ。
それでは、なぜこのような複雑怪奇現象が生じているのかと突き詰めてみた所、どうやら黒色とショッキングピンクでは、「好み」の基準が異なっているようだ。
まず黒色だが、これは自分が考える自分を表した色だ。
私は、陰日向に伸びている雑草のような人間である。眩しさに目を眇めるよりも、暗闇に慣れていく方が好きなのだ。
大勢が集まって歓談する場にいると、自分の身の置き場に戸惑い、早く影に紛れてしまいたいと、腕時計に視線を落としてしまう。
性格だけではなく、感性も暗い。
南中高度で輝く太陽の下で愛を叫ぶよりも、深夜の路地裏でそれとなく愛を囁く方が美しいと思う。
しかし、暗闇と同化したような人間が一般的な社会人生活を営むのは、難しい。普段は、白色に擬態しているものの、「これって自分じゃないよな」と違和感を覚えることがある。
黒色は、自分を保つための色なのだ。
他方、ショッキングピンクについては、自分がなりたい自分を示した色である。
「私、本当は暗いヤツなんですよ」
「そんなわけない。暗いヤツが、ショッキングピンクのスカートとか着ないから」
というやり取りを数十回はしたことがある。
このやり取りが示すとおり、他人は私を明るい性格だと思っている。彼らの印象が間違っているものとは思わない。自分が思う自分と異なっているだけで、他人が思う自分の印象も、自分であることに変わりはないからである。
けれども、自分は「暗いヤツではないから」ショッキングピンクが好きなわけではない。他人に明るい人間だと思われたいから、という理由でもない。
自分の理想とする人間像の問題なのだ。
私はジトジトした湿気深い性格だが、他人の意見に流されることが好きではない。規則では決まっていない事柄に対する判断基準の軸くらい、自分の中に持っていたい。実際に、自分なりの軸を持てているかは別問題だが、少なくとも自分は、そういう人間でありたいとは思っている。
ショッキングピンクのような人間になりたいのだ。
裏と表がなく、底が見えないくらい深いが、それでいて明るい色の人間になりたい。
人は、自分にないものに惹かれるという。私は、ショッキングピンク要素のない性格だから、惹かれているのだと思う。自分にはない要素を、色彩表現で探し出そうとしているのだ。
以上のように、私がショッキングピンクが好きな理由は、他人が思っているものと異なっている。
しかし、この鮮やかな色を身につけるだけで、クロイロ人間がシロイロ人間に擬態することに成功しているのだから、悪いことではないのかもしれない。
以前は「なぜ自己認識と他者認識に差異が生じるのか」と真剣に悩んでいたが、こうして考えると「どちらも自分なのだから、どちらでもいいじゃないか」と割り切れる。
黒色もショッキングピンクも、どちらも自分の軸。軸が二本あったら、使い分けができて気分を軽くすることもできる。
あれ。いい事づくめじゃないですか。
ここまで考えてきたが、自分はこの二色が好きなのだから、どちらも身につけたら解決するのではないか。
黒色は、どんな色と組み合わせても、順応してくれる。
バイバイ、心の岩石。
また忘れた頃に、現れるだろうけど、その時は丸い石ころになっていてくれ。