闇は全てを覆い、存在さえも隠してしまう。虚円の淵に立っている自分の姿は、誰にも見ることができない。
ここはどこなのか。
後ろにも前にも、掴むものはない。腕を大きく伸ばし、360度回してみて、気がつくのだ。
私は、一人である。
気心のしれた友達もいる。両親も健在。会社で特に嫌われているわけでもないはず。それなのに、心は真空に漂う靄のようであった。揺れるばかりで、固さが足りない。
幼稚園の頃だった。影法師を壁に映し出し、見上げていたのは。
私は同年代の子どもと比較して身長が低かった。そのせいで年下の子から、「背が高い方がお姉ちゃんだからね」と立ちはだかられたこともある。
だから、私は背丈の二倍はある細長い影に、大人になった自分の姿を託していた。
私はいつか、ここまで背が高くなる。映画に出てくるようなお城に住んで、毎日ふわりとしたピンクのドレスに身を包まれて過ごしたい。そして、いつか、一人で生きていく。
五歳児の決意は、小学生に上がった頃、「お城」から「高層ビル」に塗り替えられた。
「もう家から出ていきなさい!」
母親から怒鳴られた時には、唇をかみしめ、無言で涙を流していた。
私だって、出ていきたい。こんな場所なんて、真っ平ごめんだ。お金さえあれば、今すぐにだって出て行ってやるのに。
ビルに囲まれて、高い場所のてっぺんから世界を見下ろしてやるんだ。
いつの日か、いつの日かは。
その日は、やってくる。
私は、正真正銘の大人になった。
1DKのマンションに、一人きり。押入れにはピンク色の服が所狭しと並んでいる。ドレスはないが、お気に入りの空間。平日は、自分のちっぽけなお城に別れを告げて、古びた5階建てのビルの一室で、長い時間を過ごしている。世界を見下ろすことはできていない。
あの頃想像していた自分とは、まったく違う。けれども形を変えているだけで、なりたかった自分に近づけているのかもしれない、とも思う。
磨いても、太陽に照らせば無数の傷が浮き出る水晶玉のようなのだ。この傷に目がいく限り、私は孤独感に苛まれるのだ。
それなりの幸せを手にしているのに、何かが足りない。変わりたい、変われない、変わらないを繰り返している。
本当にそれでいいのか。
会社の同期から声をかけられたのは、そんな悶々としていた矢先だった。
「ブログとかやってよ。タイトルは、ウィークリー・ヨシナリで」
地中に埋まった鍵を掘り起こしたような気分だった。私は、失わないよう握りしめた鍵で、埃をかぶっていた扉を押した。するとそこには、大理石の柱のように聳えたものがあった。
将来の夢は作家だったが、誰にも言えなかった小学生の頃のこと。
中学校からの帰り道では、毎日書店に立ち寄り、学問を知った。
周囲に馴染めず、ガラケーでだらだらと小説を打ち散らしていた高校時代の姿もある。
直立不動の思い出が、私に問いかけてきた。
まだ気がつかないのか。
どんな時も傍にあったのは、言葉だったではないか。文章は、思い出に寄り添っていただろう。
私はつるりとした柱を撫でた。遅くなって申し訳なかった、と頭を下げながら。
ようやく気がついたのだ。
今の自分に何かが足りないなら、それは、書くことだと。
さて、私はいま、虚円の淵を徘徊している。
ここも悪い場所ではない。
何もないから、創ることはできるのだ。
まず、私は、この煙る感情を纏めることから始めようと思う。
そして、同じように闇の中を彷徨う誰かが、手を伸ばしてくれたなら、共鳴してくれたなら、
私はとても嬉しい。
これが、わたしの、はじまりの言葉。
どなたか、私の手を握ってはくださいませんか。