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『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)における「人間性」

最近読んだ本の中で、最も衝撃的だったのは、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(早川書房、2006年)である。

読了後の衝撃は図り知れず、読み終わった翌日には再び1ページ目を開いていた。それだけでは飽き足らず、原書の『Never let me go』を購入して、3度目の読書を試みている。

不思議な内容の小説である。カズオ・イシグロ作品の中では知名度も評価も高い。その反面、読むのが苦痛であったというレビューも見られる。ライトノベルのような楽しさはないので、私のように何度も読み返す人間の方が少数派なのかもしれない。

高評価を抱いた人の感想では、「命の大切さや、クローン人間と人間の違いについて考えるきっかけとなった」という内容が見られる。他方で、低評価をつけている人の感想を読むと「なぜ主人公のキャシー達が自らのおかれた環境から逃げ出さないのかが分からず、共感ができない」というものが多数を占める。

私はこの作品に対して、高評価を付ける側に立つ。しかし、共感ができないという低評価者こそ、筆者の意図を正しく理解しているのではないかとも思うのだ。

そこで、本作未読者には恐縮だが、盛大なネタバレをしながら、『わたしを離さないで』において表現されている、人間とクローン人間の違いについて考察していきたい。

 

三部構成の本作は、介護人として約12年間働く31歳のキャシーが、イギリスの寄宿学校ヘールシャムで過ごした日々、卒業後のコテージでの日々、そして「提供者(donor)」となる前の「介護人(carer)」として過ごす日々、それぞれの回想を語る形で話が進められる。なお、読者は物語を読み進める中で、ヘールシャムがただの寄宿学校ではないことや、「提供者」や「介護人」の意味を知っていくこととなる。

……というのが簡単なあらすじだが、このままでは雑文が進まないので、盛大にネタバレをする。

主人公のキャシーは臓器移植用に作られたクローン人間だ。つまり、本作における「提供者」とは「臓器移植の提供者」を示しており、提供が開始される前には同胞である「提供者」の介抱などをする「介護人」として働くことが求められている等、生まれた時点で生き方が定められた存在である。

先の低評価者のように「なぜ逃げないのか」という疑問が浮かぶのは、この設定が理由だ。生まれながらにして最期の運命が定められたクローン人間という設定だけならば、他作品にも見られるものであろう。だが、それらの作品における過酷な運命を強いられた主人公は、自らの運命から逃れることを使命として生きていく。もしくは、運命を受け入れつつも、ヒーローや悪役として別の道を歩むことを望む。

だが、『わたしを離さないで』では誰一人として運命に抗おうとしない。約3回の臓器移植後に死ぬ(作中では「使命を果たす(completed)」)ことが分かっているにも関わらず、さらに「介護人」の仕事のために国中を移動することができるも関わらず、脱走の話題すら出てこない。他作品のように、主人公たちが運命から逃げる選択をしないことへの違和感が拭えないという読者はいるだろう。人間は生に執着する。生きるための選択をしないために、主人公からは人間性が失われてしまっているようにも見える。これが、低評価者の「共感ができない」という感想にも繋がっている要因だろう。

しかし、共感できないという感覚は、作者の意向に沿ったものではないだろうか。

なぜなら、作者はキャシー達を「クローン人間」であると述べさせている。つまり、「人間」ではないのだ。低評価者は「クローン人間」を「人間」と捉えており、自分たちと同じ人間性を持った存在であると捉えている。けれども、本作品においては「クローン人間」は「人間」ではない存在であると考えているのであれば、どうだろうか。クローン人間からは、運命から逃げるという、通常の人間(ここで言う「通常」とは性交で産まれたという意味)が持ちうる感覚が欠落しているのだ。

本作におけるキャシー達が、人間的な感情を持ちながらも人間とは違う存在であることを示唆している表現は端々に見られる。

例えば、「子どもを産めない」ということ。生を繋ぐのは、人間のみならず生物界における重要な使命である。だが、作中における主人公たちは、性行為はするが、子どもはできない。子どもを産むという人間的な機能を科学の力で消すことができても、人間の本能たる三大欲求までは奪えなかったということかもしれない。

本作に出てくる「人間」は、ヘールシャムの保護官(日本語版では保護官のエミリ先生という形で訳されているが、原書では「guardian」の「Miss Emily」であり「teacher」は登場しないなので、もしかすると「先生」という感覚でもないのかとも思ったりする。)とヘールシャムの運営に協力するマダムだけなのだが、彼らもクローン人間である生徒達を自分たちとは異なる存在だと感じている。

実際に、物語の早い段階(60頁)で、人間からクローン人間への見方については、次のように表現されている。

「外にはマダムのような人がいて、わたしたちを憎みもせず害しもしないけれど、目にするたびに『この子らはどう生まれ、なぜ生まれたか』を思って身震いする。少しでも体が触れ合うことを恐怖する。そのことがわかる瞬間、初めてその人々の目で自分を見つめる瞬間――それは体中から血の気が引く瞬間です。生まれてから毎日見慣れてきた鏡に、ある日突然、得体の知れない何か別の物が映し出されるのですから。」

また別の場面では、ヘールシャムの授業中に、第二次世界大戦の収容所を囲むフェンスには電気が流れていたという男子生徒の発言を受けて、別の生徒がフェンスに触るだけで好きなときに自殺できるなんて妙な感じなものだっただろうという発言をしたり、発言を冗談と受け止めたクラスメート達が感電死をする兵士の物真似を始めたという描写がある(122頁)。

この描写を読んで、僅かな違和感を覚える読者は私だけではないはずだ。少なくとも私はこの光景を想像すると、子どもの無邪気さを理由に許される行動ではないはずであり、冗談の範疇を超えているのではないかと、透明な泥水を飲まされたような気分になる。

この光景を見た保護官の様子は、次のように説明されている。

「クラスのそんな騒ぎを見ていた先生の顔から、ほんの一瞬でしたが、血の気が引いたように思います。でも、先生はすぐにいつもの表情に戻り、にっこり笑って、こう言いました。『ヘールシャムのフェンスに電流が通じていなくてよかったこと。事故は起こるものですからね』」

この時に保護官の顔から血の気が引いた理由は、私が抱いた違和感と同じだろう。クローン人間は、やはり人間とは違う思考回路を持つ生き物なのかもしれないという、未知の生命体への疑問が確信へと変わりそうになったのかもしれない。

このわずか数頁後に、保護官の口からキャシー達へ、臓器提供が使命であるということが語られる。

なお、第三部にて、ヘールシャムが開校された理由が明かされる。それは、クローン人間にも心があることを示すためだった。エミリ先生は次のように述べている(399頁)。

「生徒たちを人道的で文化的な環境で育てれば、普通の人間と同じように、感受性豊かで理知的な存在に育ちうること、それを世界に示したことでしょう。」

この「普通の人間」という表現から、保護官さえもクローン人間を自分たちとは異なる存在であると捉えていたことが分かるのだ。読者は、このようなエミリ先生の態度を含めて「友達関係や恋愛に悩むキャシー達は人間と変わらないはずなのに、どうしてクローン人間というだけで幸せを掴めないのだろう。命の重さに違いがあるのだろう」という生死への疑問や、先ほどから繰り返し述べている「なぜ運命から逃れようとしないのか」という憤りを抱くことになるのだ。

しかし私は、これらの感想の根底にある「クローン人間と通常の人間の同一性」自体を疑問視すべきであると考える。これまで考察したように、本作においては、クローン人間と人間には、「人間性」という点において隔たりが見られるためだ。

よって、本来のこの作品が投げかけた問とは「人間性を持たないとしても、クローン人間を人間ということができるのか。仮にクローン人間が人間でなかった場合、臓器移植用のクローン人間を作ることは、倫理的に許されるのか」とするべきであろう。

すなわち、クローン人間からの臓器移植の問題を考えるにあたっては、「人間性」を定義付けることから始めなければならない。

 

本作におけるクローン人間は、生物学的な面では通常の人間との違いはない。ご飯を食べたり、愛情を育んだり、睡眠を取ったりする。言語能力も十分にある上、コミュニケーション能力にも変わりがないので喧嘩や恋愛もする。違いがあるならば、自殺の捉え方や臓器移植から逃れようとしない部分など、人間の生死の捉え方に関する面だ。

哲学的な説明では、「人間性」には「人間の事実上の特性」以外のあらゆる意味を含有しているが、辞書的には「いかなる思想の持ち主でも、生まれつき持っている性質」とされる。この辞書的な意味を採用するならば、本作におけるクローン人間には「人間性」がないという判断になる。通常、人間には生存の要求が含まれており、それ故に食事をとり、性行為をするはずであるが、彼らは「食事もとり、性行為もするが、生存願望はない」という矛盾を抱えた状況を生きているからだ。

他方、人間であることを決定するための判断材料は、人間性の有無に留まらないはずである。例えば、通常の人間でも「食事もとり、性行為もするが、生存願望はない」という状態に陥る可能性はある。もちろん、その場合、うつ病等の精神疾患という診断が下されるはずだが、生存の欲求が消えたという理由をもって、彼らが通常の人間とは異なる分類をされるわけでもない。彼らは通常の人間である。

つまり、「人間性」を持たないクローン人間は通常の人間とは異なるが、広く一般的な意味での人間とみなすことは誤りではない。そのため、臓器提供用の人間を作ることは、そもそもクローン人間は人間の一種なのだから、倫理的には許されるべきではないということになる。

それでは仮に、クローン人間と通常の人間が異なる存在であると考えた場合、臓器提供用のクローン人間を作ることは許されるのか。

作中では肯定されているが、私は肯定すべきでないと考える。なぜなら、先ほどから述べているように、人間が人間たる理由は、「人間性」以外にも存在するからだ。たとえ「人間性」がないことを理由に、クローン人間が通常の人間と異なる存在だと判断した場合においても、彼らが人間でないと100%言い切ることはできない。言い切れない以上、通常の人間の健康に資するという綺麗事で包み込んだとしても、臓器提供により命を落とすのならばその行為は殺害に分類されるはずである。

 

長々と考察してきたが、クローン人間は人間であるのかという問題は、大変奥が深い。脳死の状態で産まれたクローン人間であれば臓器提供用として用いても倫理的に問題はないのかとか、犬の臓器を移植できるようになったとして、臓器提供用クローン犬ならばクローン人間でないので問題は発生しないのかとか、考え出すとキリがない。

科学技術は発展し続けている。私たちが、クローン人間と人間の「人間性」や倫理観に真剣に向き合わなければならない未来は、そう遠くないのかもしれない。