年明けからの私は、激務であった。
残業時間こそ多くはないが、代わりに2週間に一度の出張が待ち受けていた。見知らぬ土地へ赴き、完成されたコミュニティに飛び込むのは、少なからず精神をすり減らす。さらに、出張のない日は連日、非常勤さんのサポートのために会議室内を走り回らなければならず、精神面だけではなく身体的にもハードな数か月であった。
無理がたたり、春分の日には、重い扁桃炎にかかり寝込んでしまった。大学時代以来の高熱であった。熱が下がり数か月が経つ現在も、時々喉を痛めており、声は戻らないままである。これなら、過労死ラインギリギリの残業時間の方がましだと思った。
2023年からの留学に行けなくなり、英語学習へのモチベーションが絶たれつつある代わりに、私は白紙の未来を目の前に広げる時間を得た。
さて、どうしようか。
取りあえず、英語学習には飽きた。むちゃくちゃ飽きた。発音練習や文章を読むのは楽しいし、趣味なので英語力が落ちることはないだろうけれど、試験対策用の勉強はもうやりたくない。
英語学習に飽きたために、他言語に手を出すことにした。イタリア語である。
イタリア語を勉強していることを話すと、必ず言われることがある。
「役に立たなくない?」
確かに、と頷くことしかできない。
国連の公用語は英語とフランス語。話者が多く、ビジネスで役に立つのは中国語。なんかカッコイイ枠はドイツ語。日本でも文化的に親しみがあるのは韓国語。
イタリア語は、選ばれる動機に欠けるのだ。芸術や歴史が好きだからか?ピザが好きだからか?
だが、芸術が好きならばフランス語を選んだ方が学習教材も揃っているし、ピザが好きなら英語でも良い気がする。
実際に、大学の外国語教育において、イタリア語を選択科目として置いている大学はわずかである。おそらく、私とイタリア語のあれこれを書くと、出身大学を特定できる人もいるだろう。まあ、マンモス大学なので、特定したところで珍しさの欠片もないはずだ。
自分はというと、イタリア語を第二外国語として選択した理由は、かなり適当。消去法である。
私が入学した学科は、第一外国語は中国語選択と決まっていた。そのため、多くの人は第二外国語として英語を選択していた。だが、受験に失敗したのも英語を克服できなかったことが理由であるほど、英語が苦手&嫌いだった自分にとって、第二外国語で英語を学ぶ意欲は皆無だった。
その上で、フランス語は母親が学んでおり、マウントを取られそうだったので却下。ドイツ語は英語と似ていそうという先入観から却下。韓国語はK-POPに興味が湧かないので却下。余った選択肢がスペイン語とイタリア語だったところ、スポーツよりもアートが好きだし、パエリアよりもピザが好きだったので、イタリア語を選択した。
ピザが好きでイタリア語を学習し始めたやつ〜。それ、私でした〜。
そんな消極的理由から学習を開始したイタリア語が、私の人生を変えるのだから、面白いものだ。
大げさだと笑われそうだが、事実だ。イタリア語は私の人生を変えた。
私はイタリア語を学習するまで、外国語についてアレルギーを抱いていた。もちろん、心理的なもの。海外留学をしたい人の気持ちを理解できなかったし、TOEICで高得点を取る気など更々起こらなかった。
ちなみに高校受験では合格者最低点と思しき点数を叩き出しているほど、英語は学習を開始した中学一年生から苦手だ。
自分には外国語は無理だという苦手意識がまとわりつき、学生時代を通じて、英語の授業は辛い時間だった。和訳問題も文法問題もできず、席を立たされたこともある。どれだけ予習を真面目にこなしても、翌日には次回授業の予習をやらねばならず、ノイローゼになりそうだった(こういう日本の教育方針が、私のような英語嫌いを生み出している可能性も0.01%あるのでは?)。
しかし、イタリア語は違った。名詞に性があるのも面白いし、主語がなくとも動詞だけで「私」や「彼」が判断できるのも面白い。規則が単純明快で、英語のようにモヤモヤした疑問が浮かばなかった。その結果、大学の偏差値的な問題かもしれないが、クラスの中で一番良い成績をもらうことができた。
「あれ?私も外国語できるじゃん!」
謎の自信と思い込みに満ち溢れ、私の外国語嫌いを払拭してくれたのだ。
それから、私の人生は変わった。
初めての海外旅行は、母親とともに向かったイタリア。中国語系の学科から西洋系の学科へ転籍し、卒業論文はイタリアのファッション産業史。卒業後は小さな関西の企業の事務職でのほほんと生きていこうと思っていたのに(当時は本気で考えていたことなのに、知り合いに話すと「話を作っているだろう。ヨシナリがそんな小市民的思考で満足するはずがない」と言われる。本当です!)、海外勤務ができる仕事を探し出すようになるほど変わった。
だが、イタリア語の授業自体は1年生の頃しか受講していない。資格試験のために受講したかった民法の講義と上級クラスの講義が被ったのだ。
イタリア語ではなく民法を選んだ言い訳は、今、周囲から言われるものと同じだ。
「イタリア語をやっても役に立たなくない?」
民法だってそこまで役に立たないと知るのは、数年後のことである。
役に立たないからと放置したイタリア語学習を再開しようと思ったのは、心のどこかに禍根があったからだ。
イタリア留学に行きたかったが、金銭的にも時間的にも難しかったので、諦めた。
社費留学の内定を得るためには英語に時間を割かねばならず、イタリア語まで手が回らない。
様々な理由を重ねたうえで、
「イタリア語は役に立たない」
その通りだ。役に立たないものに、情熱を傾けられるほどの暇は持ち合わせていなかった。
しかし、忘れられないのだ。
それまで、海外旅行に興味を持ったことのなかった私が、初めてローマの街中を歩いた時に、心の中で誓ったのだ。
「いつか、絶対にイタリアで暮らす」
役に立たなくても、好きなら勉強してもいいではないか。
だから、英語に飽きた自分が他言語に挑戦するなら、人生を変えたイタリア語以外にあり得なかったのだ。
こうして、年明けからはduolingoの有料会員になり、起床5分後からはイタリア語の日常会話をアプリに続いて復唱している。
「Mi scusi, lavoro al ristorante con te」
「Sono molto felice」
「Ti amo anch'io!! Grazie !!!」
夢から覚めたばかりなのにウェイトレスになりきり、これから楽しくもない職場に向かうというのに繰り返すベリーハッピー。下がっていく重い瞼と格闘しながら、誰かへの愛を囁く早朝。
メンドクサイとため息を吐き、iPhoneを壁にぶつけたくなることもある。いつまでたっても単語を覚えられず、イライラがつのることも、一度や二度ではない。
役立たないのに。やめてもいいのに。
自分の黒いささやきに負けそうになりつつも、私はイタリア語と格闘している。
出張中も欠かさず、duolingoをポチポチしており、連続勉強記録は160日を超えた。
duolingoは、私のような単純人間には効果的であり、最近は、過去のファイルを漁るために書庫へ向かえば「書庫のドアを開けた!Apro la porta!I open the door!!」と内心でキャッキャするほど、心の一角をイタリア語が占拠している。
現在のところ、イタリア語に関する明確な目標はない。
検定を受験してみたいとか、留学をしたいとか、夢は思い描いているが、「イタリア語は役に立たない。英語が大事」という思いが頭をかすめてしまう。留学に関しても「世界大学ランキング上位のイギリスの大学にしておいた方がいいんじゃないの?」という現実志向の自分が再考を促してくる。
しかし、イタリアドラマで簡単な日常会話を理解できるだけでも喜びは大きく、テストに関係のない小さな喜びが、私の学習におけるモチベーションなのだろうとも思う。
もしも、20代のうちにイタリアを留学先に選ばなかったとしたら、定年退職後に留学するだろうなとも。65歳で渡伊して、ファッションデザインを学んでみたり。
それも、ステキな生き方かもしれない。
「いつか、絶対にイタリアで暮らす」
20歳の自分を信じ続け、Amoreの巻き舌を練習する。ちょっとは上手くなることを願っている。