その本と出会ったのは、小学四年生。
当時の私は、飽きることなく、図書室へ通いつめていた。学校へ通う楽しみの七割は、本を借りることだった。
児童文学から歴史の本まで、幅広く読んでいた方だと思う。残念ながら、科学の本は興味がなかったので、手に取らなかったが。あの時、理数系の本を読んでいれば、ちょっと進む道も変わっていたのかもしれない。
小学校の図書室は狭い。その三分の一は、絵本で埋められている。読書しかしていない私は、段々と子ども向けの本では満足できなくなった。
「何かおすすめの本とかないかな」
「これ、あなたなら、読めると思うの」
渡されたのは、完全に司書の先生の好みで蔵書に入れられた文庫本。真新しく、指紋一つついていなかった。
「本当に面白いの?」
「まずは、これだけでいいから!一巻は別だけど、私が好きで一番おすすめするのは、これなの!」
先生に押し切られる形で借りたのは、『図南の翼』という可愛らしい女の子が表紙絵の本であった。
家に帰り、小さな字を追い始めたのだが、あまり興味が持てなかった。
舞台は中華風の異国。十二歳の女の子が、荒廃する国を憂いて、自らが王となるために山へ昇る。
—―これ、楽しいのか?面白いのか?
はっきり言うと、話の展開をまったく理解できなかった。難しい漢字が羅列してある上に、子どもが読むにしては、設定が緻密すぎる。ダイアナ妃が好きだった私は、中華風の世界観への興味も薄かった。
けれども、背伸びをしたい年頃だったため、
「話が分からなかったのは、第一巻から読まなかったせいだ。最初から読めば、面白さが分かるに違いない!そうに違いない!」
と言い聞かせ、第一巻目である『月の影 影の海』を借りてみた。
主人公が日本人の女の子だったので、『図南の翼』よりも取っ付きやすかったのもある。
.......ものの見事に「十二国記」にはまった。
「一番好きなファンタジー小説は?」と問われると、迷うことなく「十二国記」だと答えるくらい好きだ。小学生の時だけでなく、中学生でも高校生でも大学生でも読んだ。もはや日本国民ではなく、十二国民なのではないかと思う。
そんな「十二国記」の最新刊が、10月12日に発売された。メディアでも報道されているとおり、実に18年ぶり。私にとっては14年ぶりの新刊だ。
連休が明けてすぐの朝、通勤途中で書店に立ち寄った。表紙を見ただけで叫びそうだった。某書店で怪しげな笑みを浮かべた奴を見かけたなら、それは私だったかもしれない。
泰麒がいる!!!!驍宗がぁぁ!!!
積み上げられた一冊を持ち上げるのすら畏れ多く、手が震えた。そして、1巻も2巻も即購入。そのまま回れ右をして帰宅したかったくらいだが、きちんと定時プラス残業三時間までこなした。
物語の考察はそばに置き、不思議だと思うことがある。それは、読むごとに自分が異なる感想を抱いていることだ。
小学生の自分は「私も別の世界で生まれた人間で、誰かが迎えに来てくれれば良いのに」と夢想していた。あの頃はまだ、今よりも純粋な心を持っていたので、どこかに別の世界が存在するかもしれない、と淡い期待を抱いていた。
十二国のどこかへ逃げてしまいたかったのだ。
小学生の世界は狭い。学校を楽しめず、家庭も好きではなかった自分が異世界の存在を願ったのは、ある意味当然かもしれない。
次に、中学生。「自分が王になったら、どうするだろう」と思った。
私の通っていた中学校は、成績優秀かつ裕福なご家庭の子女が多かった。自分は底辺層の成績で、親はただのサラリーマン。かと言って眩しい美貌やら、類まれな運動神経やらも持ち合わせていなかったので、いつも劣等感に苛まれていた。
いま考えると単なる甘えでしかない。
自分が王になったら、そんな状況を打破できるのかな、と都合よく解釈していたのだ。他人から地位を与えられなければ自分を変えられないような奴が王になれるわけないだろ、と当時の私に諌言してやりたい。
高校生にもなると、話の細かい設定について難なく理解できるようになった。すでに、異世界を信じるコドモゴコロを失っていた自分が考えたのは、「国を動かすのは王ではなく、官吏だから、王よりも官吏になる方が楽しそう」ということだ。
物語の設定上、王は麒麟を介した天意により選ばれる。希望して得られる地位ではない。だが、官吏は勉強さえすれば誰にでもなれる。
天意がないだけで、現代日本も似たようなものだ。政治家には簡単になれない。しかし、国家公務員ならば、誰もが均等に受験機会のある試験に合格すれば良い。
そうか、現代の日本ならば、私でも国を動かせるのか!国家公務員とか面白いかも!
思い立ったら吉日。役者になりたいと考えていた自分は、公務員など眼中になかった。わくわくした気持ちで進路の本を漁ってみたのだが、一読して書棚に戻した。
法律の試験とか無理すぎる。
また、高校時代は、漢文がお気に入りの科目だった。漢詩も十八史略も好きだ。浪人中は毎日、馬鹿みたいに晏子春秋などを読んでいた。どう考えても、「十二国記」の影響である。好きが高じて、大学は中国文学専攻に入学したくらいだ。(ちなみに李白がお気に入りなので、いつか語ろうと思う。)
このように、自分の辛いことや楽しいことに寄り添い、成長を見守ってくれている小説が「十二国記」なのだ。
私は畏れ多い新作を、二巻まとめて一週間で読み切った。内容については、前作の謎が解決されるどころか深まるばかりであり、11月の続編に大期待と言ったところである。最近の通勤時間は、ネタバレ考察サイトのサーフィンで溶けている。早く11月になってほしい。久々に生きる目標を見つけてしまった。
さて、社会人になった私が本作を読み、14年間を経て何を考えたのか。
読後に浮かんだのは、深まった謎よりも
「上司にホウレンソウをしていない官吏たちは仕事ができない人材だし、国が傾くはずだ。王の苦労に涙だらだら」
という妖魔も麒麟も関係なく、これ以上ないほど現実的な感想であった。
勿論、散りばめられた伏線も気になる。この小説の根底にある「理想の政治とは。天意とは」という主題にも考えを巡らせる。しかし、自分の現在の状況と重ね合わせてしまい、澄んだ心で楽しめないのだ。
十二国民失格かもしれない。
さらに、新作を読んだ後、迫り来る激務を直視したくなかったため、前作にあたる『黄昏の岸 暁の天』まで購入した。現実逃避を試みたわけである。
新装版が出版されたため、初読みの時と表紙絵は違うが、中身はまったく変わらない。この巻は、個人的ベストスリーに入るくらいお気に入りだ。久しぶりに読んでも、やはり面白い。十二国で生きる王と官吏の姿に、懐かしさが溢れだした。
だが、もはや職業病なのだが「決済しなければならない文書」という語句が気になってしまう。「決済じゃなくて決裁だろ」と誤字を修正したい気持ちに駆られたとき、悟った。
私はもう、ファンタジーの世界で生きてはいけない。
十二国に行きたいとか、可愛らしい想像を繰り広げていた少女は何処へ。
こうして、夢見る心を失っていく。